第14回「怠惰な日常の戒め ―“超高齢化社会”の中でどう生きる?―


(いたづ)らに百歳生けらんは、恨むべき日月(じつげつ)なり 
悲しむべき形骸(けいがい)なり



「超高齢化社会」と呼ばれ、65歳以上の高齢者が3,557万人(総人口の4人に1人の割合)となった日本において、「長生きできる環境」が実現し、その中で我々は生かされていることになります。

しかし、そんな社会の中にあっても、“いつ何が起こり、どうなるかわからない露の如きいのち”を生かされている私たちが、限りある時間を浪費し、毎日を無駄に過ごすことは、残念なことであることには変わりありません。なぜなら、長生きできる可能性は高まったかもしれませんが、誰もが長生きできる保証はないからです。

そうした「どんな世相の中であれ、いただいた露命をムダ使いするようなことは慎むべきである。」ということを説いているのが今回の一句です。「徒に百歳生けらんは、恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」というのは、「仮に百歳まで生きることができたとしても、その100年を何もなすこともなくダラダラと過ごすのは、残念な時間の費やし方であり、悲しいいのちの使い方である」ということです。「形骸」は「形ある身体」のことで、私たちそのものを指します。我々現代人が、100年の人生を生きる可能性をいただいたとするならば、いただいたいのちを生き生きと輝かせていけるような目標を定め、それに向かって、日々を過ごすことが、私たち一人一人に与えられている「生きる課題」であると捉えることができるでしょう。そして、それは修証義第1章の冒頭にある「(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)因縁(いんねん)なり」というみ教えに対する、一つの具体的な解答であるとも解することができるのです。

お釈迦様が最期にお弟子様たちにお示しになられた「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」を紐解いてみると、お釈迦様が怠惰な日常を戒めていらっしゃることがわかります。まさに、それは今回の一句にも通ずるところです。お釈迦様は「どんなに硬い石でも、そこに少量でいいから水を流し続けていれば、いつかその堅い石が割れるときがやってくる。それと同じように、少しでもいいから掲げた目標に向かって日々を過ごしてほしい」と願われました。それが「精進」であり、「怠けるな」という、怠惰な日常の戒めなのです。

「超高齢化社会」の中で、人々の平均寿命は80歳を超え、私たちは一見、長生きしたいという願いを叶えることができたように見えます。しかし、誰もが長生きできるわけではありません。誰一人として、確実に明日を迎えられる保障はないのです。「自分は長生きできる」と思い込み、明日があると言って、後回しにしていくのは間違いです。これぞ、「恨むべき日月なり。悲しむべき形骸なり」です。後回しにせず、今を大切に、今を怠けずに生きていくことが、私たちの生涯を価値のあるものにしていくのです。