第2回 「観音様のお悟りー“無常”を観ずる―」
今回から、実際に、般若心経の内容を味わっていきたいと思います。
最初に、冒頭の一節をご紹介いたします。
近年(平成29年)は、“御朱印ブーム”だと言われております。確かに、以前から見ると、御朱印帳を持ってお寺にお参りにいらっしゃる方が増えたように思います。
そもそも金沢では、平成17年に北陸や西国に倣い、「金沢三十三観音巡り」が始まり、霊場となっているお寺で御朱印を書く習慣が誕生しました。「金沢〜」は宗派を問わず、観音様をご本尊様に祀ってある市内三十三ヶ所のお寺が霊場となっていて、高源院も第29番霊場となっております。
こうした御朱印帳を持参してお寺巡りをする方の応対をさせていただく中で感じることは、“ご朱印集めのスタンプラリー”で終わっているようではもったいないということです。御朱印を通じてお寺や仏のみ教えに触れ、日常を仏と共に生きるきっかけとなってほしいというのが「金沢三十三観音霊場」の一つであるお寺をお預かりする私の願いです。
それはどういうことなのか・・・?
たとえば、観音霊場となっているお寺をお参りしたとして、御朱印が出来上がるのを待つ間に観音様に触れ、そのみ教えを味わうひとときがあってもいいのではないかということです。観音様とはどんな仏様なのか・・・?それを知り、そのみ教えを大切にしながら、これからの毎日を過ごしてみるということです。
そんな日常を考える上で、今回、提示させていただいた般若心経の冒頭にある一句は何かしらのヒントとなるでしょう。まず、「観自在菩薩」とありますが、これは観音様のことです。観音様は正式には、「観世音菩薩」と申します。世音、すなわち、私たちの日常生活の中で生ずる様々な音を観る菩薩(仏様)が観音様なのです。世音を具体的に申し上げるならば、たとえば私たちが日常生活の中で発する言葉であったり、心の底の声であったりと、この世のあらゆる音のことです。
次に、観は「見る」ということですが、見るだけでも大まかに6種類存在します。“見”、“診”、“看“、“視”、“覧“、“観”―紙面の都合上、細かい意味は説明できませんが、それぞれに異なる意味があります。中でも観音様の観は「広く見渡す、深く見通す」という意味があります。そこから解釈していくと、観音様は世音を広く、深く聞き取るはたらきを有した仏様であり、だからこそ、人びとの苦しみを取り除き、安楽を与えてくれる偉大な存在であることに気づかされます。観音様は常に世音を注視しながら、私たちに救いの手を差し伸べ、苦悩を取り除こうとしていらっしゃるのです。まさに「抜苦与楽」の仏様なのです。そんな観音様だからこそ、我々は感謝の意を表するべく、手を合わせるのです。三十三観音巡りは、そうした願いを持って行わるべきものなのです。
そんな我々の苦しみを取り除いてくださる観自在菩薩(観世音菩薩)様が、日頃のご修行で深い悟りの世界に達したとき、我々が体験するこの世のすべてには、実体がないということを見極められたというのです。それが「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」の意味するところです。
冒頭から、やや難しい言葉が出てきていますが、要するに、観音様は、この世の全てが「
きれいに咲き誇っている花も、いつかは散ってしまう。やっとの思いで新築した家も、月日が建てば、だんだん古くなり、いつかまた、立て直すときが来る。どんなに若さを保とうとしても、年を重ねれば、肉体は衰える。どんなに生きていたいと願っても、必ず死がやってくる。自分も含め、周囲の全てが、平等に変化していくのです。それが「
そんな無常を全身で感じることが「無常観」といいますが、観音様が「無常観」を体得されたとき、心の中のあらゆる苦悩から救われたというのが「度一切苦厄」の意味するところです。「度」という文字は、頻繁に経典で使われる文字なので、ぜひ、知っておきたい言葉です。これは「渡る」を意味し、私たちが彼岸(悟りの岸)に渡って、心の苦悩から救われることを意味しています。観音様は何ごとも変化するという事実を知ったとき、今まで抱えていた苦しみから開放され、安楽を得たというのです。
観音様が抱えておられた苦しみとは何だったのでしょうか?それは、年をとりたくないとか、美しいままでいたいとか、死にたくないという「変化を望まぬこと」だったのです。誰しもそうした不変を望む気持ちはあります。しかし、そんな私たちの願いを叶えてくれるものは、何一つとして存在しません。そんな誰もどうしようもできないことを何とかしたいと願うから、苦しむのです。観音様は、そのことに気づいたのです。そして、「諸行無常」というこの世の道理をすんなりと受け止めることができたから、苦悩から解放されたというのです。
この冒頭部から学ぶことは、諸行無常を体得できれば、我々が抱える苦しみの多くがなくなっていくということです。無常を受け入れる中で、真実の生き方に気づいていきたいものです。