第18回 「“精進”の大切さ」
諸仏の
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、2020年(令和2年)は法要等の寺院行事の大半が休止となりました。例年ならば、「涅槃会」(2月15日のお釈迦様のご命日を偲んで営まれるご法要)が営まる2〜3月、「
そうした状況下において、今回は往時に思いを馳せてではありませんが、2015年(平成27年)の「涅槃会」における布教を振り返ってみたいと思います。この年の涅槃会は、「精進」をテーマに掲げ、布教をつとめさせていただきました。
「精進料理」等、「精進」は日常生活の中でも比較的よく耳にする仏教用語の一つです。お釈迦様が35歳でお悟りを得られたとき、また、80歳で涅槃に入られる(お亡くなりになる)とき、「精進」を説いていらっしゃいます。これらの事実は、いかに我々人間が生きていく上で、「精進」が大切であるかを物語っているように思います。
精進の“精“は“精米”の“精”で、混じり気のない純粋な状態を意味しています。そんな状態で進んでいくのが「精進」です。すなわち、何か目標に向かって、コツコツと努力を続けながら日々を生きていくことも精進、お釈迦様のお悟りに向かって、自らの身心を調えながら日々を過ごすことも精進なのです。お釈迦様はおっしゃいます。「どんなに硬い石も、それを目がけて常に少量の水を流し続けていれば、いつか割れるときがやってくる」(仏遺教経)と。この比喩が指し示すように、どんなに高くて達成困難と思われるような目標であっても、少量の水を流すが如く、日々、コツコツと努力し続ければ、達成することができるのです。
そうした私たちの精進する姿によって、私たちの日常生活の中で仏道が実現し、次第に仏様が姿を表すようになるのです。それが「行持見成」の意味するところです。仏道が実現すると、次は我が身に浸透し、周囲にもどんどん拡がっていきます。それが「大道通達」です。“大いなる道”たる大道は、仏の道を意味します。「諸仏見成」のよって、「大道通達」が実現するのです。
誰しも「