第19回「行持と精進 ―“いただいたいのちを生かす”ということ―

(しか)あれば、(すなわ)ち一日の行持是諸仏(ぎょうじこれしょぶつ)種子(しゅし)なり、諸仏の行持(ぎょうじ)なり

自分の中にある「仏性」という存在に気づき、それを磨き続けながら、仏に近づくことを「精進」と申しました。そうした「精進」の過程で、次第に見えなかった仏のお姿が見えるようになり(行持見成(ぎょうじけんじょう))、仏道が実現していきます。それが「大道通達(だいどうつうだつ)」です。

これまで「一日一日を大切にして生きていくことが、いただきもののいのちの生かし方である」ということは幾度も申し上げてまいりましたが、それを具体的に指示しているのが、「精進」です。すなわち、私たちが毎日を行持(仏の行を(たも)つこと)して過ごすことが、仏教が指し示す「いただいたいのちの生かし方」であるということです。そうした一日の行持が絶えることなく積み重なっていくことによって、私たちは仏様のお悟りに近づいていくのです。

それはたとえてみるならば、花を育てようと、土にまいた小さな種が、時間の経過と共に、いつしか芽を出して成長し、きれいな花が咲かせるようなものです。花が咲くまでの間、温かい陽射しを浴びるときもあれば、冷たい雨風に晒されるときもあります。自分の思い通りにいかないこともあり、耐えねばならないこと(受け入れねばならないこと)もあります。そんな様々な場面を受け止めながら、時期が来ると、きれいな花が咲き、見る者の心に潤いを与えます。そして、その後、少しずつ散り始め、最期を迎えまるのです。

花のいのちと私たち人間のいのちは、どこか似通っているような気がしますが、まさに「行持」や「精進」を心がける者にとっては、相通ずるはずです。私たちの身に降りかかる出来事が、温かい日差しの如きうれしいことや楽しいことであろうが、冷たい風雪の如き辛く悲しいものであろうが、逃げることなく、断念することなく、全てにしっかりと向き合い、仏様を目指すことが、「行持」であり、「精進」なのです。

花に似た私たちの日常生活。一日一日をどう生きていくかが、悟りという花をさかせるかどうかと関わっています。「行持」と「精進」を忘れることなく、日々を大切に過ごしていきたいものです。