第6回 「一周忌(小祥忌(しょうじょうき))・三回忌(大祥忌(だいしょうき))」 
―“祥(幸い)”が意味するもの―

本日(令和3年4月18日)、檀信徒の方の一周忌法要をつとめさせていただきました。一年前のご命日は、新型コロナウイルス感染拡大による「緊急事態宣言」の真っ只中で、遠方のご親族の参列は叶わなかったものの、故人様を愛する地元のご遺族の皆様が、志を一つにしてご供養申し上げたいというお気持ちによって、無事に故人様をお送りすることができたことが思い出されます。

−あの日から1年−
新型コロナウイルスは収束するどころか、イギリスや南アフリカなどから入ってきた、より感染力の強い「変異種」が猛威を振るい、“第4波”なる状況を迎えております。一周忌の場にも遠方の方々の参列は叶いませんでしたが、ご遺族の方によれば、そうした方々とも連絡を取りながら、故人様のことを気にかけてくださっているとのお話をお聞きしました。そうした参列したくても叶わなかったご遺族に向けても、より一層、心を込めて、ご遺族共々にご供養させていただいた一周忌でした。

一周忌は死後1年が経過して行われる仏事供養で、2年経って行われるのが三回忌です。一周忌には「小祥忌」、三回忌には「大祥忌」という呼び名があります。「祥」という文字が使われておりますが、“吉祥”という言葉あるように、「祥」は幸いなど、めでたいという意味があります。

それにしても、“故人様をご供養するご法要”という場面において、「めでたいこと」を意味する「祥」という文字が使われているのは、なぜなのでしょうか―?

それは「一周忌や三回忌」を「おめでたいこと」と捉えるがためのことなのです。

では、いったい何がおめでたいのでしょうか―?

それは、四十九日や百カ日等の追善供養を通じて、故人様が仏に成った、すなわち、「成仏できた」ということです。時間が経てば経つほど、大切な方を亡くした悲しみは深まっていくものであるという方もいらっしゃいます。しかし、耐え忍ぶことが多い「忍土(にんど)」たる娑婆世界に生かされる私たちが、いつまでも悲しんでいることもできません。気持ちを切り替え、むしろ、故人様との別れを仏様とのご縁(皆がよくなっていくためのよき機会)と捉えて、前向きに生きていきたいものです。そういう捉え方をしていくとき、「祥」の意味するところが理解できるような気がします。

今回、一周忌をつとめさせていただいた檀信徒のように、当山には、コロナ禍の真っ只中で、ご法事が延期になったままの檀信徒も何軒かいらっしゃいます。思うように遺族が集い、“祥(喜び)”を共有し合うことが難しい状況が続きますが、世の状況等を鑑みながら、先祖供養の機会を忘れずに意識し続けることが大切かと思います。自分たちのできる範囲で、意識手に仏事を継続し、「仏に成る機会」でもある仏縁の場を絶やさぬようにしてきたいものです。