第20回 「諸仏の原点」

(いわ)ゆる諸仏(しょぶつ)とは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり


観音様にお地蔵様、阿弥陀様にお薬師様、こうして数え上げてみると、私たちの周りには様々な仏様がいらっしゃることに改めて気づかされます。
「諸仏」が指すのは、そうした仏様
であり、その原点となる仏様が釈迦牟尼仏、すなわち、お釈迦様であるというのが、今回の一句の意味するところです。すなわち、「諸仏(あらゆる仏様)は、お釈迦様に帰結する」というのです。ちなみに、「牟尼」とは「沈黙の行を為す聖者」を意味します。お釈迦様がそういう方であったということです。

お釈迦様は今から約2600年前、インドのネパールにあるルンビニという花園でシャカ族国王の長男としてお生まれになりました。生後間もなく、実母が亡くなり、その妹である叔母によって育てられることになりましたが、将来の国王として、何不自由ない生活を保障され、大切に養育されました。

そんなお釈迦様が青年期に差し掛かったある日、お城の外で自分と同じ人間が老いや病に苦しみながら死を迎える現実を目の当たりにされ、大変、悩み苦しまれました。何不自由ない生活を送る中で、何事も自分の思い通りにできると思っていたであろうお釈迦様にとって、ご自分が目の当たりにしたこの世の道理は、我々が想像する以上に受け入れがたい苦しみであったことでしょう。

そんなお釈迦様が29歳になられたとき、心の苦しみから救われることを願い、ついにお城での生活や家族との縁を全て断ち切って、修行者の生活を始められました。当時のインドで一般的に行われていた修行は苦行でした。身体を痛めつけて精神を鍛える修行です。お釈迦様も断食修行等の苦行に励まれました。しかし、いくら苦行に励んでも苦しみから救われることはありませんでした。

6年の歳月が流れ、35歳になられたお釈迦様は、ある日、スジャータという人物からいただいた一杯の乳粥によって体力を回復させると共に、苦行をやめて、心静かに瞑想する修行を始めることにしました。「心の苦しみから救われるまでは、決して、この座から立つまい」と決めて1週間が経過した12月8日の明け方。日の出と共にお釈迦様は成道(じょうどう)、悟りを開いたのです。それは、お釈迦様が長年の間、心の中に抱えていた苦しみを払拭することができたということです。この世に存在するものは、時間の流れとの関りがある限り、年齢を重ねては老い、病にかかっては苦しみ、最後には必ず死を迎えることは避けられません。お釈迦様はこの世の存在全てが、そうした生成消滅を繰り返すという「この世の道理」にお気づきになると共に、それを何の抵抗もなく、事実として受け止めることができるようになられたのです。それが「お釈迦様のお悟り」です。

そうしたお釈迦様の成道とは、それ以前から存在していた“人間世界の仕組み”にお釈迦様がお気づきになられたと共に、そんな社会で「どのように生きていけばいいのか?」、「どうすれば悩み苦しみから救われるのか?」を我々にお示しになるきっかけにもなったことも意味しています。そのお釈迦様のみ教えは「対機説法(たいきせっぽう)」と言われるように、相手の能力や性別等を考慮しながら、一人ひとりに応じた形でなされました。それ故、お釈迦様の無数の説法(修行)を観音様や阿弥陀様といった諸仏に受け継がせる形をとって、自分が親しみやすい仏様を選んで仏道への入口とする形を採ったのです。諸仏はお釈迦様と違って、実在しない仏様ではあるものの、お釈迦様を原点として、お釈迦様のみ教えを受け継ぐ存在です。そんな諸仏の存在によって、我々が仏道に入る間口が広がると共に、原点である開祖・お釈迦様にもたどり着くことができるのです。

様々な仏様がいらっしゃいますが、そんな中で忘れてはならないのは、我々が生きていく上で、正しい道に導いてくださる仏様と、そこから発せられる正しいみ教えを求めながら、よりよい自分になっていく、すなわち、「仏に近づく」ということです。正師・釈尊とそのみ教えを求め、充実した日々を過ごすことを願うばかりです。