第22回「行持報恩 ―どう生きて、どう死ぬか?―」
即心是仏というは、誰というぞと審細に参究すべし。
正に仏恩と報ずるにてあらん
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(自分がどう生きて、どう死ぬのかをはっきりさせておくことが仏教徒にとって大切な課題である)という出だしで始まった修証義の最後を締めくくるのが今回の一句です。「“即心是仏”というのは一体、誰のことなのかを事細かく追求しておくのが、仏様のご恩に報いる生き方である」というのです。私はこれが冒頭の一句に対する解答ではないかと解釈しております。すなわち、「どう生きて、どう死ぬのか?」という問いに対する回答が「日々の生活の中で、仏とは何かをはっきりさせることによって、仏の恩に報いる生き方をし、死ぬときはその現実を冷静に受け止めて死んでいく。」であるということなのです。
道元禅師様は正法眼蔵「生死」の巻において、「生より死にうつると心うるは、これあやまりなり」とお示しになっています。人間は生まれれば、いつかは死を迎える存在なのは確かなのですが、生から死に移り変わるという連続的な捉え方をするのではなく、生は生で、死は死であるという具合に、いのちあるときは必死に生きて、生を全うすればいいのであり、死を迎えるときは、死の現実を素直に受け入れることが大切であるというのが、道元禅師様のご見解なのです。
そんな私たちのいのちというのは、修証義の第1章に「人身得ること難し、仏法値うこと希なり」とありますように、両親からいのちをいただいて、今を生かされています。そのいのちを遡っていくと、実は両親始め膨大な数のご先祖様のいのちをいただいて生かされていることに気づかされます。
また、道元禅師様は「典座教訓」の中で、お釈迦様が100歳まで生きることができた自らの寿命を20年削り、後生の人々に施されたことに触れていらっしゃいます。ということは、お釈迦様の20年が後生の人々に1分、1秒というわずかな時間で分割されて施されると共に、そのわずかな時間を基本として、私たちはそれぞれ与えられた寿命を生かされ、日々を過ごさせていただいているのです。私たちのいのちは、まさに両親始め多くのご先祖様、そして、お釈迦様からの「いただきもの」なのです。
そうした“いただきもののいのち”という観点に立ったとき、与えてくださった方々に感謝の意を捧げ、恩返しをしていきたいと思うはずです。それが「報恩」です。そうした報恩を行事という方法で実践していくことが、「行持報恩」なのです。それは自分の生き方で恩返しをしていくということです。仏教徒ならば、お釈迦様を信じ(帰依し)、そのみ教えに従いながら生きていくことで、自分の身心を調えながら、恩に報いていくということです。そうやって私たち一人一人が「行持報恩」という生き方をするならば、私たちは仏に近づくのです。それが「即身是仏」なのです。
「即身是仏というは、誰というぞと審細に参究すべし」−自分自身が仏になれる可能性(仏性)を秘めたいのちをいただいた存在に他なりません。そのことに気づくことが大切です。実は我こそが仏なのです。それを信じ、自己の仏性を磨きながら、“生を明らめていく”、自らがどうやって生を全うし、毎日を過ごしていくかを明確にするのを心がけていきたいものです。