第1回『“涅槃とは・・・? ―「生前の涅槃」と「死後の涅槃」―


仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」は正確には「仏垂般涅槃略説教戒経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」といいます。このお経にはお釈迦様がお亡くなりになる直前にお弟子様に対して説かれたみ教えが記されています。

般涅槃(はつねはん)」という言葉が出てまいりますが、これは「完全なる涅槃」という意味の言葉です。では、「完全なる涅槃」とはどういうことなのでしょうか?「涅槃」という仏教用語に触れながら、具体的に見ていきたいと思います。「涅槃」に関しては、仏教を学んでいく中で、よくお目にかかる言葉で、修証義・第1章の中でも「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」という形で触れられています。「煩悩(貪り・怒り・愚痴)の火を吹き消すこと」、「煩悩の火を吹き消した状態」という意味で使われる仏教用語です。

お釈迦様の時代、そのお言葉は今のように文字を筆記するという習慣がなかったため、お弟子様方の記憶に刻み込まれるという形で残されていきました。お釈迦様の死後、お弟子様達は一同に集い、お互いに自分たちの記憶を共有し、お釈迦様のお言葉をできるだけ多く残しておこうとしました。そうやって受け継がれていったのは、お釈迦様の生のお言葉に近いみ教えです。

後年、文字が発達し、筆録が可能になる中で、そうしたみ教えの数々がお経という形で残されるようになりました。それが「阿含経(あごんきょう)」という初期仏教経典です。「阿含経」の中で、「涅槃」は「(とん)(じん)()(三毒)を滅し尽くすことである」と説かれています。これは一本のマッチの火が燃え広がって大きな火災を引き起こすように、煩悩の炎は自分のみならず周りまでも巻き込んで、どんどん燃え広がり、悪い影響を与えていくということです。

初期仏教経典である「阿含経」に示されたお釈迦様のお言葉が意味する「涅槃」というのは、私たちがいのちをいただいて生かされている“今”という時間の中で、私たちが目指すべき生きていく課題であると捉えることができます。修証義のみ教えをお借りするならば、「生を明らめ死を明らめていく」上で、「涅槃」の境地を体得していくという課題が生じてくるのです。

ところが、時代の流れの中で、世の人々の解釈によって、お釈迦様の生のみ教えに多少の変化が生じてしまいました。涅槃にはお釈迦様のおっしゃる「生前の目標としてのもの(有余涅槃(うよねはん))」と「死後の状態を表すもの(無余涅槃(むよねはん))」と2種類の涅槃が説かれるようになったのです。後者の“死後”の涅槃が「般涅槃」が意味する「完全なる涅槃」です。

ひょっとすると、涅槃というと、「生きる上での目標」というよりも「死後の状態」を表す方を思い浮かべる方が多いかもしれません。かつて「親父、涅槃で待つ」と言い遺し、自らいのちを絶った沖雅也という俳優さんがいらっしゃいました(昭和58年6月28日亡 享年31歳)。今で言う人気の高いイケメン俳優の突然の死に、当時の社会に大きな衝撃を与えたそうですが、それ故か、人々の記憶の中に「涅槃=死後の世界」という図式が出来上がったようです。(決して、亡き沖氏が悪いわけではないのですが)

「涅槃」という言葉を理解していく中で、仏教の歴史に踏まえながら、我々の生前の「生きる目標」として、悟りや成仏と同義的に捉えていく解釈と、「般涅槃(死後の状態)」という解釈と双方の解釈を大切にしながら、より深くお釈迦様の最後のみ教えを味わっていきたいものです。