第18回「大乗仏教と小乗仏教」


戒は是れ正順解脱(しょうじゅんげだつ)(ほん)なり
(かるがゆえ)波羅提木叉(はらだいもくしゃ)(なず)


「戒」というお釈迦様のみ教え・生き方を、私たちも見習い、それに従って生きていくならば、私たちは心安らかな日々を過ごしていくことができる—それが「正順解脱」の意味するところです。すなわち、私たちが戒とともに生きていくことによって、私たちは正しく、順当な方向に進むことができると共に、自らを仏の道から逸らし、凡夫たらしめんとする悪しきご縁からも解放されるというのです。

まさに戒と共に生きることは、お釈迦様が坐禅修行によって得られたお悟りであると同時に、私たち人間に提示してくださった本来の生き方なのです。それゆえに、戒を「波羅提木叉」と名付けるというのです。

お釈迦様の滅後、2~300年ほどの間に、教えに対する解釈の相違から仏教教団は多くの部派に分裂しました。これは「部派仏教」と呼ばれ、仏道修行によって、自己の悟りを完成させることが特徴の一つでした。

そうした「部派仏教」に対して、人々の救済を誓願とし、仏に成る(成仏)ことを目的とするのが「大乗仏教」です。中国や日本に伝わっている仏教は、この大乗の立場の仏教になりますが、お釈迦様ご在世の頃の仏教(原始仏教)が、後に解釈の相違から分裂し、大乗仏教に至ったというのが、仏教の経緯です。

人々の救済を説く大乗仏教は、仏のみ教えはこの世のすべての存在のためにあり、皆のための教えであるというものです。それに対して、部派仏教は自分の救済です。すなわち、自分の悟りを求めるということです。そうした自分だけの救いを求めるという印象が、大乗仏教側から「小乗仏教」と言われる所以です。

しかしながら、お釈迦様がお亡くなりになる間際におっしゃられた「波羅提木叉」なる戒は、部派仏教の立場も、大乗仏教の立場も両方の立場によって説かれたものなのです。すなわち、自分の悟りや救済を追及する部派仏教の立場を採りながらも、実は自分が悟りを得れば終わるのではなく、その悟りは人々を救済せずにはいられなくなるものであり、必然的に自分の悟りを追及することと人々の救済はつながっているのです。また、皆の救済を願うことから始めるならば、やはり、自分自身の悟りを追及していなければ、本当に人を救済することができないわけで、大乗か小乗(部派)かという議論ではなく、双方の立場で自他共に救われることを誓願するのが、お釈迦様の原始仏教の立場が説く「波羅提木叉」なのです。

約2600年という歴史の中で人間が理解し語りつくせぬほどの変遷も経ながら、インドから中国、日本へと様々な国に伝わり、それぞれの地に根付いている歴史や文化と融合して今に至る仏教―そうした過程の中で大乗や小乗といった立場が主張されましたが、どれが正しくて、どれが間違っているということではなく、そのどれもが遡れば、お釈迦様につながり、原始仏教を原点とした自他共に救われるものであることを押さえておきたいものです。