第21回「持戒の功徳 ―本当の幸せに巡り合う―」
若し浄戒無ければ諸善の功徳皆生ずることを得ず
「悪を断ち、善を修する」という姿勢を、いつ何時も貫き通しながら日々を過ごすことは容易なことではありません。
古代中国の詩人である
若かりし頃の白居易が道林和尚に「仏教とはどんな教えか?」と質問したところ、「悪いことをしない、よいことをすることが仏教である」という回答が返ってきました。小さな子どもでもわかるような回答に驚いた白居易から道林和尚にツッコミが入ります。「そんなことは、3歳の子どもでもわかることじゃないですか。」ところが、それに対して道林和尚は「3歳の子どもでもわかることだけれども、80歳の老人だってやり遂げるのは難しいことだ。」とおっしゃいました。
このやり取りは、こうした道林和尚の明快な回答を聞いて、白居易がすっかり帰依してしまったという形で結末を迎えますが、「悪を断ち、善を修する」という浄戒を持って毎日を生きていくことは容易なことではないことが伝わってきます。しかし、少しでも浄戒を心がけながら日々の生活を過ごしてくことは、十分によいことをして毎日を過ごすことにつながっているんだとお釈迦様はおっしゃいます。それが「浄戒を持すれば是れ則ち能く善法あり」の意味するところです。
それに対して、「浄戒無ければ諸善の功徳を皆生ずることを得ず」とは、浄戒を持たずに毎日を過ごしていれば、善なるものに巡り合えないとお釈迦様はおっしゃるのです。すなわち、人生の価値や、人として生きる喜びなど、この世にいのちをいただいて生かされている我々が、是非、巡り合っておきたいものに出会うことができないというのです。
「人間として生きていく上で、一体、何が本当の幸せなのか・・・?」―考えさせられます。名誉や財産など、そういった目に見えるものを誰よりも手にしていることが本当の幸せなのでしょうか・・・?そうとは言えないように思います。人として生まれてきたことに感謝でき、人として毎日を過ごせることに喜べることが、本当の幸せではないかと思います。
そんな本当の幸せは浄戒を持ち続ける中で、自然と巡り合えるものなのです。