「坐禅の用心を働かせて」

坐禅を修行の根幹と為す曹洞宗にとって、「坐禅用心記」は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」(道元禅師撰述)と双璧をなす大切な坐禅の参考書です。「坐禅用心記」をお示しになったのは瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師(1268−1325)です。曹洞宗の大本山・總持寺(そうじじ)のご開山様で、曹洞宗発展の礎を築かれた宗派の祖師です。「坐禅用心記」は1680年刊行とのことです。鎌倉時代後期の禅僧である桂座禅師様がお亡くなりになってから数百年の歳月を経て、この世の知るところとなった一巻であるということです。

さて、「坐禅用心記」の「用心」とは、一体、何を意味しているのでしょうか?

「用心」とは、心構えのことです。ですから、「坐禅用心記」とは、坐禅における心構えが記されていると解することができるでしょう。

では、我々は、どういう心構えで坐禅に臨めばいいのでしょうか?

それは日常生活における万事に対して、坐禅の精神を働かせて臨むということです。

姿勢を正し(調身)、しばし端坐すると、次第に心が落ち着き、安らかになってきます(調心)。そして、この世に生かされていることが実感されてきます(調息)。坐禅によって、自分の全てが調ってくるが如く、
自分が発する言葉や動作に対して、坐禅の精神を働かせながら、万事を調えていくことが、坐禅の用心であるということです。すなわち、坐禅をしているときだけ自分を調えていればいいというのではなく、どんなときも自分を調えて行動していくことが大切であるということです。

坐禅の用心を働かせるということについて、考えさせられる出来事がありました。

令和元年8月2日・3日、私は長崎にて二日間に渡る布教のご縁をいただきました。会場は長崎の三大寺院の一つで、九州における宗門の大切な修行道場である晧臺寺(こうたいじ)様です。この2日間は施食会(せじきえ)(お盆のご法要)が営まれ、両日100名を超える檀信徒の方が参列されました。私は両日、50分のお時間をいただき、法話をつとめさせていただきました。

お役を終えた私は、今回のご縁を結んでくださったご老師とお会いし、しばしのひとときを過ごさせていただきました。「正師(しょうし)を得ずんば、学ばざるに如かず」(学道用心集(がくどうようじんしゅう))と道元禅師様はお示しになりましたが、ご老師は長年にわたり、布教の道を歩み、多くの人々に仏法の素晴らしさをお伝えしてこられた方で、まさに私にとって、正師、よき人生の先生です。

そんな正師たるご老師から賜った布教のアドバイスは坐禅の用心と合致するのです。

老師はおっしゃいました。
「あなたは法話の場となると、あれほど生き生きと話をして、いい話ができるのに、日常会話はさほどうまくないのはなぜなんだろうか。」

後日、私はこの言葉について、考えを巡らせながら、自分が布教での会話と日常会話を無意識のうちに使い分けていたことに気づかせていただいたのです。すなわち、布教のときは意識して、言葉を選んだり、話し方を変えるなどしているのに、日常会話ではそうした意識を働かせていなかったのです。坐禅の用心を働かせる場とそうでない場を自分の中で区別していたがゆえに、周囲には違和感を覚えさせていたのです。

そのことを教えていただいたときに、私は万事に坐禅の用心を働かせていくことを心がけることにしました。自らを調え、日常の一つ一つのご縁を仏縁と捉えて、大切に関わりながら、坐禅の用心を忘れずに、毎日を過ごしていきたいものです。

そういう日常生活を送る大切さをお伝えしたうえで、次回より、本文に入っていきます。