第2回「心地開明(しんちかいめい)本分安住(ほんぶんあんじゅう) 仏祖正伝の坐禅説くもの」


()れ坐禅は(じき)に人をして心地(しんち)開明(かいめい)し、本分(ほんぶん)安住(あんじゅう)せしむ。


「坐禅を行じ続けていくことで、我々凡夫の煩悩(貪り・(いか)り・愚かさ)が調整され、仏のお悟りに近づいていくと共に、自分たちが本来有するものの存在に気づき、穏やかな気持ちで過ごすことができる」と瑩山禅師様はおっしゃっています。これは仏教の開祖であるお釈迦様が坐禅によって、悟りを得たことはもちろん、道元禅師様が「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中で、「所謂坐禅(いわゆるざぜん)習禅(しゅうぜん)に非ず、()()安楽(あんらく)法門(ほうもん)なり」とお示しになったことを、瑩山禅師様ご自身も坐禅修行を通じて体得されたことを意味しています。そして、この一句は瑩山禅師様がご自分のお言葉で坐禅に対する見解をお示しになられたものと解すべきでもありましょう。

すなわち、この冒頭の一句は「坐禅用心記」を紐解ていく上で、踏まえておくべき重要なものであるということです。同時に、お釈迦様の坐禅が脈々と瑩山禅師様まで相承(そうじょう)されていることも押さえておくべきポイントではないかと思います。

坐禅によって調整されていく我々の心というのは、多様に変化し、定まることのない、まさに実態なき存在です。そんな自分との心とどう向き合っていくかが、仏道を歩む上で欠かせません。そんな我々の心を、瑩山禅師様は「心地」という言葉で表現なさっています。大地が水や光といった、周囲との様々ないのちと関わりながら、様々な草木を生み出していくように、私たちの心も様々なご縁との関わりの中で、様々なものを生み出し、変化します。それが「心地」という言葉の意味するところです。

そんな心地が開明(はっきりする)したのが、仏のお悟りです。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」は、この世に存在するあらゆるいのちには、仏性(悟りを得た仏様のいのち)が宿っていることを意味しています。すなわち、私たちの行い、心がけ次第で、私たちは自分が仏のいのちを有した尊い存在であることに気づくことができるというのです。私たちの心の中が明るく、はっきりしている状態ならば、仏性の存在に気づき、本分に安住できるのでます。しかし、どうも我々凡夫は、心の中が暗く、ぼんやりしていて、仏性の存在が見えなくなっているようです。だから、迷いや苦悩を抱えて毎日を過ごしてしまうのでしょう。

そんな私たちが身心共々に安らかで健康に過ごせることを願い、瑩山禅師様は道元禅師様と同じく、坐禅を勧めてくださっています。多忙な日常生活を送る我々現代人ですが、一佛両祖様(お釈迦様・道元様・瑩山様)が伝えてくださっている坐禅をほんの10分、20分でもいいから、日常生活の中で取り入れてきたいものです。しばし、姿勢を正し、心静かに過ごすひとときを過ごす―それが、私たちの日常に安楽をもたらしてくれるのです。