第5回「坐禅の相 ―対立概念を超越する―」


故に不思善不思悪(ふしぜんふしあく)、能く凡聖(ぼんしょう)超越(ちょうおつ)し、
迷悟(めいご)論量(ろんりょう)透過(とうか)し、生佛(しょうぶつ)辺際(へんざい)離却(りきゃく)す。


―善と悪、好きと嫌い、生と死―
私たちの周囲にはそうした対立概念が多々存在します。そうした対立のどちらかを選び、選んだものは大切にするのに、選ばなかったものは遠ざけ、その価値さえも認めようとしないのが我々凡夫です。

それに対して、悟りを得た仏様のものも見方は、そうした対立概念を超えています。それが今回の一句が指し示す内容です。すなわち、善と悪、凡夫と聖人、迷いと悟り、生(我々衆生)と佛(覚者たる仏様)といった対立概念を作らず、双方を受け止め、
全ての価値や良さを認めていく捉え方なのです。仮に悪しきものが眼前に存在していたならば、正しき仏のみ教えを伝え、善に導けばよい。迷いあるものは悟りへと導けばよい。仏様は万事が仏性(仏に成れる性質)を有していることをわかっていらっしゃるが故に、こうした行いが為せるのです。

坐禅の相(姿)は、そんな対立概念を超越したものであると瑩山禅師様はおっしゃっています。周囲の対立概念に捉われ、その価値の有無など論議しているようでは、仏の悟りとは言えないということです。

坐禅によって、真の自由(身心(とも)脱落(だつらく))の境地となり、万事の価値を見出せるようになっていきたいものです。