第3回 「お釈迦様のお悟り」


()れを本来の面目(めんもく)(あらわ)すと(なづ)け、亦本地(またほんち)風光(ふうこう)(げん)ずと(なづ)く。


是れ″という始まり方をしていることから、今回の一句が前回のものを受けて展開されていることは明白です。前段では瑩山禅師様の坐禅観が示されていました。そこでは、瑩山禅師様がお釈迦様から始まり、歴代祖師方が相承してこられた坐禅を受け継いでいると共に、坐禅が「心地開明(しんちかいめい)本分安住(ほんぶんあんじゅう)」という、自己が有する仏性に気づき、身心共々に安らかに生きていく上で欠かせない道であるというご自身の見解が述べられていたことが確認できました。

その上で、瑩山禅師様は坐禅が「本来の面目」であり、「本地の風光」であると再定義されているのが今回の一句です。この両者は同じことを説いているもので、各々が本来具えている真実の姿(面目)を意味しています。坐禅によって、身、心、呼吸の三者がに調って来ると、周囲のいのちの真実の姿が見えてくるというのです。そこには、自分勝手な解釈やものの見方が入り込む隙間はありません。仮にそういうものの見方で捉えていくならば、たちまち、真実からかけ離れた誤った捉え方をすることになるでしょう。

真実の姿をありのままに見つめられるようになったとき、この世の全てのいのちが関わり合い、支え合いながら、それぞれ生かされていることに気づくことができます。私たちが時間と関わっているから、万事が変化していくのです(諸行無常(しょぎょうむじょう))。自分とは全く異なる存在と関わっているから、思い通りに進まないことに出会うのです(諸法無我(しょほうむが))。いつまでも若いままでいたいという無変化を願う考え方や自分の思い通りにしたいという願いは、身勝手で都合のいい考え方でしかなく、真実の姿からは大きくかけ離れています。そして、そんな願いを叶えようとするから、不要な苦悩を抱えることになるのです。

坐禅をしながら、そうした周囲との関わり方が誤っていることに気づくと同時に、事実をありのままに捉え、自分が周囲のいのちとの関わていることに気づかされたとき、お釈迦様は悟りを得ました。それがお釈迦様の成道であり、人として生きていく上でのあるべき道を体得することができたということです。こうした釈尊の成道もまた、道元禅師様や瑩山禅師様によって正しく証明され、今日に伝えられているのです。