第6回 「隻手音声」(せきしゅのおんじょう)


無言の合図を頭や耳だけではなく、全身全霊で聞き取る


隻手(せきしゅ)」とは、片手のことです。両手を打てば、“パチン”と音を発しますが、片手では音を鳴らすことはできません。仮に、音を鳴らすことに大きな意味があるとします。両手を使って何らかの音を確実に鳴らせることができるのならば、両手には価値があります。ところが、片手だけでは音を鳴らせないとすれば、片手に価値は見い出せません。しかし、もし、片手でも音を出せるようになれば、片手にも価値を見いだすことができるのです。

「隻手音声」は、両手で発する音だけに捉われて、それだけに価値を見出すのではなく、片手が発する音にも耳を傾け、価値を見出せるような周囲との関わり方をしていくことが示された禅語です。以前、法話のコーナーで『「(かん)」の眼で周囲を見渡す・見通す』というお話をさせていただきましたが、自分の周囲の人々に対して、どういう人間なのかをしっかり見渡し、一人ひとりの内面までしっかりと見通しながら、相手と深くて強い人間関係を築いていきたいものです。

こうした関わり方を可能にするためには、「目(眼)・耳・鼻・舌・身」という五感に(心)を加えた「六根(ろっこん)」を使い切ることが必要となります。試しに、人と会話をするとき、相手が発する言葉だけを漠然と聞くのではなく、相手がどんな表情で言葉を発しているか(悲しい表情か?明るい表情か?など)を読み取ったり、なぜ相手がそんな会話をするのか・そんな言葉を使うのかなど、相手の心情まで深く嗅ぎ取ったり、味わったりするような聞き方(聴き方)を心がけてみてください。それが「隻手音声」につながる人との関わり方です。誰に対しても、こうした関わり方を心がけていくうちに、より一層、深い関係を築いていけるのです。

こうしたお付き合いは、神経も使えば、時間もかかり、面倒に感じる部分もあります。しかし、そうやって得られた関係は、とても強固なものになります。SNSや様々な通信機器等が発展する中で、人間同士の関係の希薄化は年々、拍車がかかっているように感じます。コミュニケーション不全と申しましょうか、お互いの意志が中々伝わらない場面にも多々出くわします。そういう中で、ひょっとすると、他者と関わるよりかは、一人で好きなことをしていたほうが、気も遣わなくていいと感じる人も多いような気がします。

しかしながら、お釈迦様の「衆縁和合(しゅうえんわごう)(この世の全ての存在がつながり、関わり合って、一つの世界を形成している)」というみ教えを思うとき、いくら通信機器が発達しようが、この世は、人間同士の関わり合いなくしては成立しないことに気づかされます。ですから、SNSばかりに頼らず、自分の六根を駆使して他者と関わる力を常日頃から鍛えておくことが大切なのです。

人づきあいには、いいこともあれば、悪いこともあります。うれしいこともかなしいことも起こります。しかし、そのどれを取っても、自分を成長させることにつながっていくのです。そして、それは、人間同士の交わり合いを通じて育まれていくのです。喜怒哀楽すべての感情を有し、完璧ではない「人間」との関わり合いによって、人間は成長していくことを「隻手音声」から再確認しておきたいものです。