第4回 「身心脱落 ―本当の自由に出会う―」


身心俱(しんじんとも)脱落(だつらく)して、坐臥同(ざがおなじ)じく遠離(おんり)す。


冒頭に登場する「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉―自身の若かりし頃を振り返ってみると、全く理解することができなかったことが思い出されます。この言葉は自分の身体も心も一切の束縛から解放されて自由になった状態を指しています。

道元禅師様は坐禅の姿、行そのものが身心脱落であるとおっしゃっています。しかし、若かりし頃の私は「足を組み、手を組み、姿勢を調え、暫し端坐する坐禅のどこに束縛から解放された自由があるのか」という疑問が先に出てしまっていたが故に、「身心脱落」というみ教えを中々、理解できませんでした。

結局、坐禅によって、身心が自由になるかどうかは、坐禅をやり続けてみなければわかりません。昭和を代表する禅僧・澤木興道老師が「全ての経典は坐禅の注釈書である」という名言を遺していらっしゃいますが、「行」が主であり、坐禅の実践を抜きにしての、経典理解はもちろん、正しい坐禅の理解は不可能なのです。近年、そのことにようやく気づきつつあるかなと感じております。

確かに坐禅中は自分の都合で動き回ることも、疲れたからといって横になることも、腹が減ったからといって飲食をすることも許されるわけではありません。自分の好き勝手なことができないという点では自由とは言えません。

しかし、好き勝手、自分のやりたいようにできることが自由なのでしょうか?本当の自由とは、自分の一切の言動について、責任を持てる者に与えられるのです。自由をはき違えてはなりません。特に坐禅の世界において、自由をはき違えると、たちまちお釈迦様から伝わる坐禅に対して、誤った捉え方をすることになるでしょう。

ここに言う自由とは、私見からの自由ということです。私たち凡夫は、日頃、自分に都合がいいように物事を考えたり、好き勝手な捉え方をしてしまうことがあります。そして、そうした捉え方によって、好きなものと嫌いなものだとか、好都合なものと不都合なものだとかいった分別を発生させ、自分にとって都合がいいと感じるものを選んでしまうのです。そうした捉え方をするから、苦手なものや不都合なものと関わらなくてはならなくなったとき、不要な苦悩を抱えることになってしまうのです。実は私たち凡夫は、そうした私見によって、我が身を束縛し、自分の自由を自らの手で奪っているのです。

そうした私見から離れ、仏のものの見方や考え方を身につけ、真の安楽に出会う道が、坐禅であると瑩山禅師様はおっしゃっているのです。そこでは好悪の対立、左右の違いなど、分別して好みのものにだけ価値を見出すというようなことはありません。分別を超え、双方の価値が平等視され、大切にされます。坐臥遠離とは、座ること・臥す(寝込む)ことという相反する二者を例示した上で、両者の対立を超えた先に、坐禅という「身心脱落」という自由の境地があること意味しています。

未来に余計な期待を持つことなく、只管に坐禅を行じていくとき、、私たちは真の自由に出会うときがやって来るのです。