第6回「休息と放下 ―六根の働かせ方を学ぶ―」


故に万事を休息し、及び諸縁を放下(ほうげ)して一切()さず、六根作(ろっこんな)すこと無し。


「休息」とありますが、これは「今、自分が行っている仕事などをストップし、何もせずに休んでいる」という一般的な休息を意味しているのではありません。ここでは、前回、瑩山禅師様がお示しになっていた「相対する対立概念を超越し、その価値を認めることの一点だけに集中すること」を意味しています。瑩山禅師様は坐禅を通じて、私たちが周囲の全ての存在に対して、好悪等の自分の好みや価値観だけで関わることなく、万時に価値を見出す関わり方をしていくことを願っていらっしゃるのです。

次に「放下(ほうげ)」という言葉が出てまいります。禅の世界には「放下著(ほうげぢゃく)」や「放てば手にみてり」等の言葉があります。いずれも、執着から解き放たれることで、価値に気づくことを説いたみ教えなのですが、先の休息同様、あらゆる日々の仕事やご縁からいったん離れ、坐禅の世界に身を投じることを瑩山禅師様はお勧めになっているのです。

そうした休息や放下によって、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通じて得られる相(姿)も音もにおいも感覚も、何物にも左右されることがない状態になるというのが「六根作すこと無し」の意味するところです。我々は日々の生活の中で、六根を使って生かされているわけですが、その六根によって好悪が生じ、相手への関わり方が決まっていくことも否めません。それが三毒煩悩((むさぼ)り・(いか)り・(おろ)かさ)ということなのでしょう。

この煩悩と坐禅との関係について、瑩山禅師様始め、祖師方がおっしゃっているのでは、坐禅によって六根の働きを停止させるということではありません。ここが大きなポイントではないかと思います。

誰が提示した見解かは定かではありませんが、世間一般に「坐禅中は何も考えてはいけない」とか、「禅の世界は無である」などといった捉え方が存在するようです。それに対して、「無になるというのは死んだ人間のことである。生きている間は無になれない。なぜなら、生きるということはものを考え、心や身体を使うものだからである。」とはっきり断言さえたご老師もいらっしゃいます。それがお釈迦様から相承(そうじょう)されている正しい坐禅なのです。すなわち、外部から何らかの働きを与えて、強制的に六根をストップさせるというのこではなく、頭の中に浮かぶものは浮かぶがままに、目に飛び込んでくるものはそのままに、耳に聞こえてくる音はそのままに、自分の中に入ってきた情報に左右され、好悪を決めたりするのではなく、あるがままに受け止めていくというのが、「休息」や「放下」の意味するところであり、祖師方の説く六根の働かせ方だということなのです。

すなわち、煩悩を働かせないような六根の働かせ方を体得していくのが坐禅だということです。