第7回「深遠なる坐禅の世界」


這箇(しゃこ)は是れ阿誰()そ、(かつ)て名を知らず。
身と為すべきに非ず。(しん)と為すべきに非ず。
(おもんぱか)
らんと欲せば慮絶(りょぜつ)し、言はんと欲せば言窮(ことばきは)まる。
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の如く、(ごつ)の如し。山高く海深く(いただき)(あらは)さず底を見ず。

私たちは普段、自分たちの感覚器官(仏教では(げん)()()(ぜつ)(しん)()六根(ろっこん)を指す)を使って、様々な情報を取得しながら周囲のいのちと関わっています。どうしても自分の意のままに生きていこうとする習性を有した私たち人間は、そうした六根を自分の好き勝手に使ってしまいがちです。それゆえに、周囲に対して、好悪を生じさせては、そこに捉われ、差別的な関わり方をしてしまうこともあります。

そうした六根を意のままに扱うということは、外側から圧力をかけて、強引に操作しようとするようなものです。そうした状態から離れるのが坐禅なのです。すなわち、坐禅によって、あらゆる束縛から解放され、自由な状態になるのです。頭に浮かぶもの一つ一つに捉われることなく、浮かぶがままにしておくこと。目に映るものに好悪の情を抱かず、映るがままにしておくこと。六根を強引に働かせず、自然のままにして、この世の全てに我が身を委ねていくのです。なぜなら、それらが常に自分の眼前に存在するわけではないからです。生成したものは、いつか消滅していく無常なるものなのです。それ故に、そこに拘っても仕方がないから、捉われずに、そのままにしておくのです。

瑩山禅師様は、そういう束縛から解放された自由な状態を、前段では「休息(きゅうそく)」とか「放下(ほうげ)」という言葉で表現されていました。坐禅とは、そうした休息や放下の行なのです。すなわち、私たちがあらゆる束縛から自由になり、周囲の万事を受け止めていくことができるようになる行が坐禅であり、そんな坐禅と我が身が一体化し、仏になりきることが大切なのです。

そんな坐禅を言葉を用いて、完全に説明しつくすことはできません。また、一言で定義づけることも至難の業でしょう。なぜならば、説明や定義づけは、六根を働かせれば、あれこれ思考しながら、行われることだからです。坐禅が六根の働くがままに行ずるものであれば、言葉で表現し尽くす必要もなくなります。今回の一句は、そのことを説いています。名づけようにも名づけることができないもの。考えても考えても答えが出し尽くせぬほどに奥深いもの。身や心で表現しつくせぬ境地。言葉や思いで言い表すことさえできぬ世界。それらはあたかも、今の時節(11月)ならば、山頂から色彩豊かに染まった絶景を目の当たりにし、言葉で言い表せぬ程の感動を覚えるようなものです。そして、それが坐禅の世界だということです。


登っても登っても先が見えぬ山頂や、潜っても潜っても到達できぬ海底のごとき、深遠なる坐禅に対して、あれこれと頭で考えた見解を持ち込もうとせず、ただ大山のごとく、兀兀として、身を正す中で、六根では表現しつくせぬ世界とのご縁ができるのです。