第10回「没量(もつりょう)の大人 ―真の人格者とは・・・?―」


乾坤(けんこん)坐断(ざだん)して全身独露(ぜんしんどくろ)す。
没量
(もつりょう)
大人大死人(だいにんだいしにん)の如く、一翳(いちえい)眼遮(まなこさえ)ぎることなく、一塵(いちじん)の足に()くる無し。
(いずれ)
(ところ)にか塵埃有(じんないあ)らん。何物(なにもの)遮障(しゃしょう)()さん。


世の中には言葉では言い表せないくらい物凄いオーラを持った人物がいます。存在感があり、発言や言動にも重みがある、まさに人格者というべき方です。それは禅の世界においては、坐断(徹底的に黙々と坐禅を行じる)お姿から、全身独露(この世の真実の姿が表れる)し、ありがたみや親しみといった、人を引き付ける魅力がにじみ出ている人材を指すのでしょう。

瑩山禅師様は、そんな人材を「没量の大人」と言い表しています。没量とは、計り知れぬ程、偉大な存在ということです。「どれくらいすごい」と数値で言い表せたり、言葉で表記できるようでは、没量とは言えないでしょう。生と死、迷いと悟りといった対立を超越した存在なのです。

先日、長年に渡り闘病生活を送っていらっしゃる方と数年ぶりに再会させていただくご縁がありました。長らくお会いできずにいたので、その後が気がかりでした。久しぶりに拝見したお姿はお元気だったころから見れば、お痩せになってはいました。しかし、見た目には変化を感じる部分はあっても、そのお姿からは往時と変わらぬ存在感や輝かしいオーラが漂っていました。瑩山禅師がおっしゃる「没量の大人」とは、まさにこうした方のことを指すのだろうと感じました。

頃合いを見て、その方にお声をかけてお話させていただきました。すると、その方は涙を浮かべるような表情をなさいました。このとき、私の中に思わず込み上げてくるものがあり、涙がこぼれてきました。ほんの暫しのひとときでしたが、手を取り合い、会話をさせていただくことができました。私が若かりし頃、色々なことを教えていただき、叱咤激励いただいた尊敬すべきその方に、私は精一杯の感謝の意を伝えさせていただきました。「あなた様のおかげで今の自分がある」と―。

この出来事を通じて、私は改めて、見た目だけで物事を判断することの愚かさを思わずにはいられませんでした。今回の一句には「一翳の眼遮ることなく」とあります。(えい)とは陰りや曇りを意味しています。物事の道理を見抜く力が暗いために、真実が見えないことを意味しています。引き続き、「一塵の足に受くる無し」とあります。目のみならず、他の感覚器官や身心においても、真実を受け止めていくことの大切さを説いています。

世間の一切の束縛から離れ、自分の感覚器官を自由にすることによって、身心が調ったとき、私たちは安心(あんじん)を得られる―それが坐禅です。そうした坐禅を徹底的に行じてきた人間から嘘偽りなくにじみ出ている禅のオーラは、表面的な変化はあっても、生涯変わることなく、身についているものなのです。真の人格者とはそういう方を指すのです。