第9回「“秋色染まる金華山(きんかざん)”に観た禅のみ教え」

思量せずして通ず。宗黙説(しゅうもくせつ)(ほが)らかなり。


前回に引き続き、岐阜旅行の話題です。

令和元年の夏は去年同様に、猛暑が続きました。おまけに残暑も厳しく、中々、過ごしやすい季節が訪れなかったような気がします。地球温暖化による異常気象なのでしょうか・・・?とは言いながら、岐阜県の金華山(きんかざん)は色彩豊かな紅葉に染まっていました。異常気象と言われても、いつもと何ら変わりなく、この時節には金華山始め日本の大自然は秋色に染まるのです。我々の肌身には秋の気配は感じにくかったかもしれませんが、季節の訪れを金華山が物語っているように感じました。

今回の一句に「思量せずして通ず」とあります。これは秋が来れば秋色に染まることを意味している一句です。我々人間は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)で得た情報によって、あれこれ頭を働かせながら、言葉を発し、行動を提示していきますが、大自然はそうではありません。秋になれば紅葉に染まり、冬になれば雪が降る。温かくなれば草木は芽吹くのです。そこには思量(頭で思い量る)して、人を喜ばせようとか、自分がよく見られようなどという意識はありません。異常気象だからといって、腹を立て、花を咲かせないというような自己主張もありません。縁の働きによって、自ずからあるがままの姿を見せ、事物が明らかになるだけなのです。

その境地は言葉で説明できるものでもあれば、黙っていても自ずと伝わってくるものでもあります。それが「宗黙説に朗らかなり」の意味するところです。言葉を発しても、黙っていても仏法を説いているということです。ひるがの高原から見た雲に隠れた白山連邦はすべてが一体であるという真実の姿を説いているのです。同様にして、黙々と坐している姿はお釈迦様が説法なさるお姿そのものであり、そうした人間が日常生活の中で発する言葉も行いも仏法そのものだということなのです。

坐禅はお釈迦様と一体とになりきる行いだとお示しになった古老がいらっしゃいます。そうやって、言葉や行いを正していくことが、この世にいのちをいただいて生かされている我々一人一人の目指すべき生き方だということを押さえておきたいものです。