第11回「常識のメガネを外す ―表裏なし、区別なし、名前なしの世界―」


清水本表裏無(せいすいもとひょりな)く、虚空終(こくうつい)内外無(ないげな)し。内外玲瓏明白(ないげれいろうめいびゃく)にして、自照霊然(じしょうれいねん)たり。色空未(しきくういま)(わか)たず、境地何(きょうちなん)(りつ)せん。従来共(じょうらいとも)(じゅう)して歴劫名無(りゃくこうなな)し。


周囲の存在に対して、自分の感覚で好悪等を発生させ、分別して捉えていく関わり方をしている私たち凡夫に対して、対立や区別のない世界を伝えてくれるのが坐禅なのです。また、そうした対立概念というものは、私たちが生み出してしまった誤った見解であり、本来は全ての存在が平等であるということを伝えているのが坐禅だということです。

サラサラと小川を流れる自然の水には表も裏もありません。大自然から湧き出てくる清浄な水が私たちの眼前を流れているだけなのです。虚空とは私たちが存在している広大無辺の世界です。本来は一体の、内も外もない世界なのに、私たちは自分の勝手な都合で内と外というような形で分別して甲乙をつけてしまうのです。玲瓏とは、本来は一体であるということを指している言葉です。これは透明な様を表しています。私たちが私見というカラーを混ぜるから、曇って真実が見えなくなってしまうのであり、本来は虚空は透明であり、全てが明白に感じ取れるということです。

色空にしても同じです。これは有と無、存在しているかどうかということです。諸行無常といいます。それは、この世とのご縁をいただいたものが存在し、そのご縁が尽きるときに無になっていくことが繰り返されているということであり、それが、この世の道理です。各々の存在が有の瞬間と無の瞬間を繰り返しながら、この世は成立しているのですが、有か無というように、特定の瞬間に注視してしまい、そこに私見という色を混ぜてしまうために、真実が見えなくなってしまうのです。

こうした表裏や内外といった区別が存在しないという真実に気づくとき、私たちは眼前に存在するものに対して、その一点のみを見て、好悪の感情を覚えたり、何らかの名前を与えたりしていますが、実はこの世に存在するものは、本来は名前さえ名づけることのできないのです。それが「歴劫名無し」の意味するところです。

「清水に表裏無し」、「虚空に内外無し」、「歴劫名無し」であり、玲瓏明白であるという真実を捉えていくとき、「表裏あり」、「内外あり」、「名前あり」としていたこれまでの常識的なメガネを外し、区別なく、名前さえ存在しない真実の世界を、坐禅によって味わってみたいものです。そうした味わいによって、私たちの人生というものを見つめ直してみることの意義深さを感じるのです。