第13回「本来の姿 ―佛性(ぶっしょう)法身(ほっしん)―」


佛性(ぶっしょう)(そう)(けん)じ、諸佛の(たい)(あら)はす。
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圓月(えんげつ)の相は欠くること無く余まること無し。
此の(しん)に即する者は便(すなわ)ち是れ佛なり


前段において、瑩山禅師様は中国の三祖大師(さんそだいし)とインドの龍樹尊者(りゅうじゅそんじゃ)のみ教えを引用しながら、インド・中国を経て、日本に伝わってきた正しい坐禅についてお示しになられました。三祖大師のみ教えからは坐禅をしているときの心は「佛性」であること、龍樹尊者のみ教えからは坐禅をしているときの姿は「法身(ほっしん)」であるという解釈が成り立ちます。だから、坐禅をしているときは、仏様そのものに成りきっているのであり、坐禅は仏の行いそのものであるという思想が成立するのです。そして、それが今日、伝わっている正伝の坐禅なのです。

高源院で坐禅会(やすらぎの会)を行うようになって、10年が経ちました。会では20分間の坐禅を行いますが、正伝の坐禅の観点から申し上げるならば、20分坐れば、20分間仏に成ることができるのです。

この20分間の中で、禅に参じている方々は、姿勢を調えることで、心が調い、呼吸が調っていきます。このとき、身心共々に日常の様々な束縛から解放され、真の自由を得ることができると共に、これまで自分の頭や各種感覚器官を使って、無意識のうちに良し悪し等を分別していたものに対して、万事に価値を見出すことができるようになっていくのです。それが仏のものの見方であり、周囲との関わり方なのです。そして、私たちは、坐禅によって、そこに気づくことができるのです。

そうした坐禅の姿が満月の如く円満なものであり、欠ける部分もなく、全てを満たしたものであるというのが、「圓月の相」の意味するところです。私たちの心は本来は、仏の性質を持った心(佛性)であり、身体は仏の身体(法身)なのです。それが日々の生活における様々な出来事やご縁の中で、段々と自分の本来の姿が見えにくくなってきてしまうのです。

そうした自分の眼を曇らせてしまっている存在から自由になることで、万事をありのままに受け止めると共に、本来の姿に気づいていく方法として提示されているのが、お釈迦様から伝わる正伝の坐禅なのです。