第15回「発心・修行・菩提・涅槃の生き方 ―令和2年の年頭に際し―」


心本(しんも)二相無(にそうな)し、身更に相像(そうぞう)に異なり、唯心(ゆいしん)唯身(ゆいしん)と、異と同とを説かず。
(へん)じて身と成り、身(あら)はれて相別(そうわか)る。
一波纔
(いっぱわず)
かに動いて萬波随(ばんぱしたが)い来る、心識才(しんしきわづ)かに起って萬法競(ばんぽうきそ)い来る。



今回、瑩山禅師様は元々「平等」・「一体」の存在であったものが、様々な縁に触れたとき、色々な形に姿を変えていくことを通じて、仏と共に生きる道を選び、仏のお悟り向かってまっすぐに進んでいくことをお示しになっています。一句ずつ味わってまいりたいと思います。

「心本と二相無し」とあります。二相無し″という言葉が私たちの心は、元々、平等で一体ものだったことを示していますそれは好き嫌いといった分別が生じていない状態です。

そんな私たちの眼前に生じたご縁(ヒト・モノ・出来事・大自然 etc)によって、私たちの心が動き、好悪等の分別が発生します。そうした姿形に違いがある状態が「身更に相像と異なり」の意味するところです。相像は眼前の存在が「きれい・きたない」、「太い・細い」などのような、差別の相を示していることを意味しています。心は元来、平等でなのですが、縁によって、違いが生じてしまうというのであれば、違うとも同じとも断言することはできず、まさに、「異と同とを説かず」なのです。

実際には断ずることが困難なために、どこか奥歯に魚の骨が挟まったような感覚が残るのですが、それを取り除き、私たちに明快な回答を提示しているのが、「心変じて身と成り、身露はれて相別る」です。すなわち、心が縁によって変化し、それによって、身という差別の相が顕れてくるというのです。平等な心と違いの存在する身と、両者は一体の関係を有する、つながりのある存在であることを押さえておきたいものです。

これを譬えを用いて指し示しているのが、「一波纔に動いて萬波随い来る」です。大海の青々とした水は、風がないときは静寂を保っています。ところが、一たび、風というご縁が生ずれば、波が生じます。強風であればあるほど、波も強くなるのは言うまでもありません。大海の水が心であり、風によって起こる波が身をたとえています。そして、水も波も元来は同じものなのですが、風という縁によって、姿形が変化しただけなのです。

ここで言う水面に起る「一波」は、「一念」・「一慮」といった、ほんの一瞬、心の中に生じ、思いを巡らせることを譬えたものです。これを仏道の世界に当てはめるならば、発心(ほっしん)という悟りを求める最初の一念発起を大切に日々を過ごしていくと、いつか必ず、萬法(お釈迦様のお悟り)につながっていくことを意味しています。それが「心識才かに起って萬法競い来る」の意味するところです。これは「精進」という混じりけのない純粋な状態(精)でもって、まっすぐにお釈迦様のお悟りを目指していく生き方にも相通ずるものです。

この世は「諸行無常」という、すべては縁によって生滅していく世界です。全ては元々、一体であり、縁によって、様々な姿形に変化します。そのことをしっかりと押さえ、仏や仏のみ教え(菩提(ぼだい))と共に生きる心を起こし(発心)、悟り(涅槃(ねはん))を目指して毎日を過ごしていく(修行)ことを、令和2年の年頭のご縁に際し、お伝えできれば幸いです。