第25回 「五根を制すB ―「あおり運転」問題等から学ぶお釈迦様のみ教え―」
唯五欲
亦悪馬
将當
五根(眼・耳・鼻・舌・身)を制することは、自らの中に存在する三毒煩悩(貪り・
クルマ社会″と呼ばれて久しい現代社会において、近年は「あおり運転」の問題や「高齢ドライバーによる死亡事故」など、様々な問題が取り上げられるようになりました。「あおり運転」に関しては、同じ公道を利用する他者の運転等に立腹して、執拗なまでに嫌がらせ行為を繰り返し、果ては相手を死に至らしめるまでの重大事に発展してしまったケースがあることは周知のとおりです。
こうした「あおり運転」問題が発生する背景には、クルマ社会の中には、五根を制することができないのに、自動車の運転を許可されている者が多いことを言い表しているように感じます。かく言う私も、自身の20数年の運転生活を振り返ってみると、とても五根を制しながらハンドルを握っていたとは言い切れず、只々、猛省するばかりです。
かの「あおり運転」は、お釈迦様の最期のみ教えである本文中の「若し五根を縦にすれば、唯五欲の将に涯畔無うして制す可からず」という箇所と見事に合致しております。涯は岸を、畔は境やほとりを言い表しています。五根を制することなく、自分の感情が赴くがままに過ごしていくと、善悪の境界線を見失って、どうにもできなくなるとお釈迦様はおっしゃっています。それは瞋りのみならず、欲望の調整ができないでいる貪りや、真実や道理を自分の都合のいいように解釈しようとする愚かな行いにも通じます。このことを、よくよく我が身に念じて、毎日の生活を過ごしていきたいものです。
お釈迦様はそうした五根の制御が不能になった状態を、飼い主のたづなを無視して暴れまわる馬のごときものであるとおっしゃっています。それが「悪馬の轡を以て制せざれば」の意味するところです。そんなコントロールできなくなった悪馬はやがては無抵抗の人間さえも坑陥(落とし穴)に墜としてしまうと、お釈迦様はお示しになっています。
「あおり運転」問題と同様に、平成31年の春に発生した「池袋暴走事故」も忘れることができません。加害者となってしまった高齢者に対する世間の怒りや批判の声は共感できる部分も多いのですが、お釈迦様のみ教えを我が身に念じながら、この事故で亡くなってしまったお二人の被害者のご冥福を祈ると共に、遺されたご主人の苦悩を我が事として受け止め、同じ苦しみを味わう人が出ないよう日々を過ごしていくことが、仏道を歩む者の役割と思っています。