第14回「坐禅の功 -“手中の明珠”に気づく―」


自己の光明(いにしえ)(のぼ)り、今に輝き、龍樹(りゅうじゅ)変相(へんそう)を得、諸佛の三昧(ざんまい)(じょう)ず。


まずは冒頭にある「自己の光明」という言葉について、味わってみたいと思います。

光明とは仏様が発する光のことで、我々衆生に救いの手を差し伸べてくださる存在です。「自己の光明」ということですから、自分の中に存在する仏の光であり、前段で登場した「佛性」を意味していることに気づかされます。三祖大師(鑑智僧璨(かんちそうさん)禅師)が坐禅をしているときの心が佛性(仏の心)であるとお示しになりましたが、仏性は元来、誰もが有しているもので、日々の生活の中で、意識的に手入れをしていかなくては、どんどん汚れていってしまうものです。禅語の「明珠在掌(みょうじゅたなごごろにあり)」は、そうした佛性の性質を知り、メンテナンスを怠らないことを説いた言葉です。

引き続き、「古に騰り、今に輝き」とあります。自己の光明は過去も照らし、今も照らすとあります。各々の存在には各々の仏性が輝き、それが永遠に仏の光を発し続けていく様が示された箇所です。

次に龍樹の変相とあります。龍樹尊者は三祖大師と共に、瑩山禅師様が帰依し、そのみ教えが引用されている祖師です。坐禅をしているときの姿は仏の姿そのものであるとお示しになった龍樹尊者ですが、そうした仏の姿を欠けることなく、全てを満たした「圓月の相」であるとお示しになりました。各々の存在が佛性の光を輝かせているとき、仏の姿を提示しているのです。それが坐禅の変相ということなのでしょう。

何も期待せず、余計なものに惑わされず、一心に我が身を投じ、身も心も仏に成りきっているのが坐禅です。そんな坐禅を続けていく中で、我が手中の仏性の存在に気づくことでしょう。いのちをいただいて生かされている実感や得も言われぬありがたみなど、坐禅を行じていく中で出会うご縁によって、言葉では到底語り尽くせぬ「生きることの奥深さ」に気づかせていただけるのです。それが坐禅の功徳なのです。