第26回「“
害たること
お釈迦様は業論者であり、仏教は「業」の思想であるとおっしゃる識者がいらっしゃいます。業とは自分たちの行いを意味し、自分の行いに応じた形の結果が生じます。善いことをすれば、善いことが起こります。逆に、悪事を働けば、悪の結果となります。そうした業の思想を根底に置いて、お釈迦様は我々に善事に生きる道を勧めています。お釈迦様が指し示す善なる道とは、お釈迦様のみ教えに従って、自分が発する言葉や自分が提示する行いを調えながら過ごすことです。
日々の生活の中で、ふと自分の日常を振り返ってみるひとときを持つことができるならば、そこから心安らかにに生きる道が始まっていくのでしょう。そのタイミングで、仏と共に生きる道を選ぶことができれば、自分の言葉や行いが調い、安心して毎日を過ごすことができるようになるのです。
「劫害を被るが如きんば苦一世に止まる」とは、日常生活の中で、自分を顧みる機会を持つことなく、自由気ままに、煩悩を調整することなく過ごした者が必ず経験しなければならなくなることです。すなわち、煩悩のままに生きるという業を因とすれば、一生涯に渡る苦悩に満ちた毎日を生み出していくという果が生み出されていくということです。
私たちが自分の五根(眼・耳・鼻・舌・身)で生み出してしまった三毒煩悩を放ったらかしにしておけば、禍殃(わざわい、災難)や累世(迷い)を繰り返し、その害はとてつもなく大きいとお釈迦様はおっしゃっています。だから、お釈迦様は、私たちに五根を調え、煩悩を言葉や行いにして外に出さないよう、自らを正し、慎ましやかに生きていくことを勧めてくださっているのです。
そうした善なる業を因とし、善果を感じられるような毎日を少しでの多くの人が過ごすことを願うばかりです。