第19回「“不退転”に生きる ―瑩山禅師様の坐禅観―」


今坐禅は(まさ)仏性海(ぶっしょうかい)()り、即ち諸仏の(たい)(あらわ)す。本有妙浄明(ほんうみょうじょうみょう)心頓(しんとん)に現前し、本来一段の光明(つい)圓照(えんしょう)す。海水(すべ)て増減無く、波浪も亦退転(またたいてん)無し。

以前、瑩山禅師様は坐禅用心記の中で、中国の三祖大師(鑑智僧璨(かんちそうさん)大和尚)の「坐禅をしているときの心は仏性である」というお示しを引用なさっていました。その仏性は「水波別無く、動静異なること無し」とあるように、縁によって異なる姿を示しながらも、元来は平等な存在であるということでした。

また、瑩山禅師様は龍樹(りゅうじゅ)尊者(那伽曷樹那(なぎゃはらじゅな)大和尚)
が「坐禅をしているときの身体は法身である」というお示しをも引用なさっています。我々の身体もまた、心と同じで、表面的には差別の相を表しながらも、元来は平等なる存在です。

これらの引用を通じて、瑩山禅師様はお伝えしようとしていることは、お釈迦様から脈々と伝わる「仏祖正伝の坐禅」とは何かということです。

そんな瑩山禅師様が指し示す「仏祖正伝の坐禅」とは「仏性海に入り、諸仏の体を標す」というお言葉に言い表されているように感じます。すなわち、「坐禅をしているときは仏様そのものになっている」という、お釈迦様からインド、中国、日本の祖師方へと脈々と伝わっている坐禅そのものなのです。坐禅をしているときの心は仏の心であり、その姿は仏を体現しているのだということです。ここに祖師のみ教えの「相承(そうじょう)」を感じずにはいられません。

引き続き、瑩山禅師様は「本有妙浄明の心」とおっしゃっています。本有とは誰もが元々持っているものということです。それが「仏性」です。その仏性は妙浄(最高に清浄な状態)であり、明(この世の道理を悟った明るい状態)な存在なのですが、私たちは日常生活の中の迷いや妄想のために、仏性の存在が見えなくなっているのです。

そんな仏性が坐禅を行ずることによって、その存在や性質が我々の前で明るく照り輝き始めるのです。そうやって、我々は自らの中に存在する仏性に気づき、我が身で捉えることができるようになるのです。そして、私たちの心が調っていくのです。これぞ、身体を調えること(調身)による調心ということなのでしょう。「本来一段の光明終に圓照す」とは、こうした状態を表した一句なのです。

さらに瑩山禅師様は続けられます。「海水都て増減無く、波浪も亦退転無し」と。退転とは精進とは真逆の行いです。すなわち、修行を怠けることです。それは仏から遠ざかたり、悪の道を歩んだりすることです。

それに対して、日々、坐禅によって、身も心も仏と成ることを心がけ続けていくことが、「不退転(ふたいてん)」という生き方でなのです。坐禅を通じて、不退転に生きることが、お釈迦様から伝わる仏祖正伝のみ教えであり、瑩山禅師様が坐禅用心記をお示しになる中で我々に願ていらっしゃることを押さえ、“不退転”に過ごしていきたいものです。