第20回「寂静無漏(じゃくじょうむろ)妙述(みょうじゅつ) −瑩山禅師様の坐禅観A―」

(これ)を以て諸仏は一大事因縁(いちだいじんねん)の為に世に出現して、
衆生をして仏の知見(ちけん)開示悟入(かいじごにゅう)せしめたまふ、
(しか)
して寂静無漏(じゃくじょうむろ)妙述有(みょうじゅつあ)り、
是れを坐禅と()


我々が仏道修行を怠けることなく、「不退転(ふたいてん)」に生きるならば、仏が現前し、その見解(知見)を以て、開示悟入(悟りの世界へと導きいれること)させると瑩山禅師様はおっしゃいます。「一大事因縁」とは、修証義第1章の冒頭にも出てきますが、最も大切なことという意味で、坐禅をも指しています。日々の修行の中で、ただ只管(ひたすら)に坐禅を行じている1時間は、身も心も仏に成りきっている1時間であり、そうした仏としての不退転の日常が因となって、仏の悟り(開示悟入)という果につながっていくというのです。

次に「寂静無漏の妙述」とあります。「寂静」に関しては、お釈迦様がお亡くなりになる直前にお弟子様方にお示しになった最期のみ教えの中でも触れられております。

令和2年2月10日現在、世間は「コロナウイルス」の話題で騒然としています。人間の歴史を振り返ってみると、「ハンセン病」や「3.11大震災による原発問題」等、いつの時代も人体に害を及ぼす存在に対して、その正体がはっきりしなければしないほど、人々は不安を覚え、それゆえか、根拠のない噂を拡げ、さらに多くの人の不安をあおるということを繰り返してきました。

こういう状況に陥ったとき、世間の考えや動きはそれとして、肯定も否定もせず、冷静に事実を掴み取って対処していくことが大切です。それがお釈迦様がお示しになっている「寂静」なのです。

瑩山禅師様はさらに、「寂静無漏」とおっしゃっています。漏とは三毒煩悩(貪り・(いか)り・愚かさ)のことで、言葉や行いにして外部に漏らしてはならないものであり、漏らすこと事態が恥ずべきものでもあります。そうした三毒煩悩が漏れていない状態を「無漏」と言うわけで、寂静とは無漏の状態でもあります。

そうした事実をありのままに受け止めた冷静なる状態であり、自らの中の三毒煩悩が調整された最高の状態(妙述)が坐禅だと、瑩山禅師様はおっしゃっています。日々、私たちの五根(眼・耳・鼻・舌・身体)から入ってくる様々な情報は、ときに私たちに不安や恐怖を与え、寂静なる状態を打ち破ることがあります。また、三毒煩悩が調整できなくなり、外に出してしまう(有漏(うろ))こともあるかもしれません。

だからこそ、事あるたびに「寂静無漏の妙述」という言葉を思い起こし、自らを調え、修めながら、日々を過ごしていきたいものです。