第21回「仏道の正門 ―瑩山禅師様の坐禅観B―」


即ち是れ諸仏の自受用三昧(じじゅゆうざんまい)なり、又は三昧王三昧(ざんまいおうざんまい)と謂う。
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し一時も此の三昧に安住(あんじゅう)すれば則ち(ぢき)心地(しんち)開明(かいめい)す、
(まこと)
に知る仏道の正門なることを。


今回は「三昧(ざんまい)」という言葉が登場します。これは禅の別称で、坐禅は三昧の具体的な姿です。瑩山禅師様は坐禅が諸仏の「自受用三昧」であり、「三昧王三昧」であるとお示しになっていますが、それは、どういうことなのでしょうか。

まず、「自受用三昧」について触れてみたいと思います。「自受用」とは、自分で受用することです。坐禅によって、身心共々に仏と成り、仏祖のお悟りを全身で感じ取ることができたとき、坐禅の素晴らしさが味わえるでしょう。そうした自らが坐禅を行ずることで、自ら仏のお悟りが体得できることを、自受用三昧といい、これがお釈迦様や両祖様(道元禅師様と瑩山禅師様)始めとする祖師方が行じ、後世に脈々と相承(そうじょう)してきた仏祖正伝の坐禅なのです。

坐禅は「自受用三昧」であると同時に、「三昧王三昧」であると瑩山禅師様はおっしゃっています。王様という、最高位の立場にある者のごとく、坐禅があらゆる三昧の中でも、最も優れたものであることを意味しています。

天台宗には四種三昧と申しまして、坐禅のような“坐る禅”のみならず、阿弥陀仏像のまわりを阿弥陀様の名をお唱えしながら歩き続ける禅など、四種の禅(三昧)が説かれます。そうしたあまた存在する三昧の中でも、“坐る禅”である「坐禅」が最高であると瑩山禅師様はおっしゃているのです。そして、「一時も此の三昧に安住すれば則ち直に心地を開明す」とありますように、ひとときでも坐禅を行ずれば、三毒煩悩が調整され、仏のお悟りに近づくことができるのです。

仏のお悟りに到達する道(仏道)は幾本も存在するのでしょうが、実は坐禅こそが仏のお悟りに直結する最短の仏道なのです。「良に知る仏道の正門なることを」は、そのことを説き表しているのです。