第30回「考える力の発揮 ―“人間の強み”を生かして―」
動転軽躁
譬えば
禁制
「飽食の時代」と呼ばれ久しい現代ですが、たとえば、平成30年2月の大雪時のように、食糧の配送がストップして、“食べられない”という場面に直面したとき、食に対して無関心だったことを省みると同時に、食をいただけることに対する感謝の気持ちが芽生えてくるものです。
もう20年近く前のことになりますが、大本山總持寺での修行生活が始まって10日程経った頃のことでした。
そんな私が甘い煮豆を口にしたとき、その甘みが疲れ切った身心を癒し、気持ちが和らいでいきました。「甘いものって、こんなにおいしいものなのか。」―まるで初めて御馳走をいただくかのような感動でした。そして、この1年間は、修行中の身でありながら、甘いものへの執着が最大値に達した時期でもありました。
お釈迦様が「人有って手に蜜器を執って、動転軽躁して但蜜のみを見て深坑を見ざるが如し」とおっしゃるのは、まさにご本山で甘いものに捉われていた自分のような状況であると同時に、そうした執着によって、心を制することができなくなり、我が身を滅ぼしていく様を譬えを用いて表現した一句です。すなわち、目の前に御馳走のような、自分がどうしても口にしたいと執着している存在があれば、人はそこにばかり気を取られ、自分の身を滅ぼす大きな穴(深坑)の存在に気づかず、痛い目に遭うものなのです。まさに「甘い誘惑には、滅亡にもつながりかねない落とし穴が存在している」のです。だから、心を調え、深い坑の中で身動きが取れなくなるようなことがないようにしたいものです。
次にお釈迦様は、狂象(暴れ来るって手に負えない象)や、樹木を騰躍踔躑(勢いよく飛び回る)猿猴(サル)の譬えを用いて、心を制することなく、放逸にして生きることへの戒めを説いていらっしゃいます。野生動物と違って、人間は頭脳を有し、「考える力」という強みを持っています。その強みを発揮して、心を制し、調えながら、日々を過ごしていきたいものです。