第31回「末法時の仏道修行 ―“八大人覚”の意識づけ−」


(まさ)(すみやか)に之を(とりひし)いで放逸(ほういつ)ならしむること()かるべし


計らずも、お釈迦様のご命日である2月15日の夜更けに、仏遺教経(釈尊最期のご説法)に関する原稿を執筆させていただいております。今から約2600年前の遠い昔、80歳のお釈迦様が静寂なる闇夜の中で、最期の力を振り絞り、お弟子様方に説法をなさったとのことです。そのお姿はこの上なく尊いものであったことは想像に難くありません。

そんな仏遺教経を、我が曹洞宗門では、古来より2月1日から14日までの夕べの勤行の際に読誦し、お釈迦様のご供養をさせていただく習慣があります。檀信徒の「お寺離れ」が叫ばれる時代ですが、僧侶である我々一人一人がこうした修行を心がけていれば、仏法は世間に拡まると共に、次世代にも継承されていくはずです。

お釈迦様が最期のご説法の中でお示しになった八大人覚(はちだいにんがく)(8つの仏道修行者が修めるべき徳目 下記参照)をお示しになったことに倣い、日本曹洞宗の開祖・道元禅師様も著書・「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻にて、八大人覚に触れていらっしゃいます。道元禅師様は正法眼蔵を100巻まで撰述することをお考えだったようですが、1253年に永平寺において、病を抱えながら八大人覚に触れ、100巻の完成を見ることなく、54年間のご生涯を終えられたことが、お弟子様である弧雲懐弉(こうんえじょう)禅師様によってお示しされています。

★八大人覚

少欲(しょうよく) 三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を調整し、言葉や行いにして表に出さない
知足(ちそく) 両極端に偏らず、仏のみ教えの範囲内のほどほどのところで満足できるように心がける
遠離(おんり) 自分の身心を乱す存在から距離を取り、自身を調えることを心がける
精進(しょうじん) 悪を断ち、善を修し続けることを意識して、仏のお悟りに向かってまっすぐ進む
不忘念(ふもうねん) 仏のみ教えに従って、自分の身心を調えながら日々を過ごすことを忘れずに心がける
(じょう) 自分の身心を調えながら過ごす
修智慧(しゅうちえ) 仏のものの見方や周囲との接し方を体得し、自らの五根を制する
不戯論(ふけろん) 仏の言葉を体得し、仏の道から外れた無駄話等を慎む

そんな八大人覚の巻において、道元禅師様は「お釈迦様がお示しになった8つの徳目こそ、仏道修行者が我が身に念じて実践すべき生き方である」とおっしゃっています。道元禅師様によれば、お釈迦様が実在なさっていた正法(しょうぼう)時(仏滅後500年の正しい教えや修行、悟りが存在している時代))や像法(ぞうほう)時(仏滅後500年〜1000年の教えと修行者は存在しても本当の修行ではない時代)は修行者たちは八大人覚を知り、自らの生き方として修行していだが、末法時(正法時・像法時以降、教えのみ存在し、修行や悟りのない時代)は、知るものが少ないとのことです。道元禅師様のみならず、現代の我々も、そうした末法の時代の中に生かされています。だからこそ、正法・像法時以上に、八大人覚のみ教えに触れ、我が身に念じながら日々を過ごしていく必要性があるのです。そうした理由からに、2月には仏遺教経の読誦を通じて、八大人覚を意識していくのです。

そんな修行によって、我々修行者は自分の心と向き合い、放逸(放ったらかし)にせず、しっかりと調えて、悪を断ち、善を修することを意識づけていくことができます。「挫いで」は、屈服させることです。どこか強制的な押し付けの印象がありますが、他者に持論を強制して屈服させてはなりませんが、自分に対して善を修する生き方を押し付けることは、自身の心を調えることにつながります。どうか、実践していきたいものです。