第22回「全てを放下して ―坐禅中の頭の中の状態―


()心地(しんち)を開明せんと欲する者は、雑知雑解(ぞうちぞうげ)放捨(ほうしゃ)し、世法仏法(せほうぶっぽう)抛下(ほうげ)し、
一切の盲情(もうじょう)を断絶して、一実(いちじつ)眞心(しんじん)現成(げんじょう)せば迷雲収(めいうんおさま)り晴れて、
心月新
(しんげつあらた)
たに明らかならん。


平成20年10月から毎週日曜日に高源院で坐禅会(やすらぎの会)を行っています。坐禅会を始めた頃、29歳だった住職は意気込んで、「坐禅会をするお寺の住職ならば、せめて住職だけでも毎朝、坐禅をしよう。」と坐禅三昧の毎日を過ごしていました。すると、どうでしょう。お釈迦様から両祖様(道元禅師様・瑩山禅師様)始めとする祖師方へと脈々と伝わり、両祖様がそれぞれの著書でお示しになっている坐禅観が感じられるようになりました。「坐禅をしているときの我が身は仏様の身体(法身(ほっしん))であり、心は仏様の御心(佛性)である」という祖師方のみ教えが確かなものであることを我が身で体得できたとき、まさに瑩山禅師様のおっしゃる「迷雲収り晴れて、心月新たに明らかならん」という、心に何か引っかかっているものがなくなり、スッキリと晴れ晴れした心境になることができました。そして、そうした経験が今につながっていることを感じます。

とは言え、それは禅僧たるもの、当たり前の修行であり、声を大にして、人様にお聞かせするようなことではありません。ただ、こうした坐禅三昧の日常が、“自分は悟った”という勘違いや横柄な態度を生み出すことにつながっていったという経験もありました。そのことは押さえておきたいところです。

坐禅をしていると、頭の中に色々な考えが浮かび上がってきます。その中には、凡そ仏道修行とはかけ離れた妄想(雑知雑解)もあります。古老は「坐禅中であっても、生きている限り、考え事をせず、頭の中を空っぽにすることは不可能である」とおっしゃいました。これは坐禅中に何か考えが浮かんできても、それを考え続けるようなことをせず、考えを放下(捨てる)して、頭の中の状況に一喜一憂するようなことをしないようにということなのです。

そうやって放下するのは盲情や雑知雑解、世法(世間の学問等)だけではありません。仏法も放下の対象であると瑩山禅師様はおっしゃいます。一見したところ、目や耳を疑うような印象を覚えますが、坐禅中に仏法を考え、そこに捉われると、“自分は悟った”という勘違いに陥っていくのです。私自身がそうでした。そして、それが言葉や態度にもにじみ出て、周囲に不快感を与えていたことは大いに反省すべきところです。瑩山禅師様はそのことさえも熟知なさっていらっしゃったからこそ、仏法も放捨するようにとお示しになるのです。

頭の中の全てに捉われることなく、浮かんできた考えは「浮かんでは消える」を繰り返しつつも、身心はただ・ひたすらに坐禅の形を行じ続ける―そうやって坐り続けていく中で、「一実の眞心が現成し、迷雲収り晴れ、心月新たに明らかに」なっていくのです。