第23回「帰家穏坐(きかおんざ)の修行」

佛の(のたま)はく聞思(もんし)()門外(もんげ)(しょ)するが如く、
坐禅は(まさ)に家に(かえ)って穏坐(おんざ)すと、誠なるかな。
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の聞思の(ごと)きは、諸見未(しょけんいま)(きゅう)せず、
心地尚
(しんちな)
(とどこお)る。故に門外に処するが如し、
只箇
(ただこ)
の坐禅は一切休歇(いっさいきゅうけつ)して(ところ)として通ぜずといふこと無し。
故に家に還って穏坐するに似たり。

仏の周囲との関わり方、悟りのものの見方を「智慧(ちえ)」と申します。お釈迦様はお亡くなりになる直前に、お弟子様たちにも智慧の習得(修智慧(しゅうちえ))をお示しになっています。これは、まさに仏弟子たる者の生き方であり、我々凡夫も仏弟子を見習い、できるだけ体得していきたいものです。

そうした智慧を修行段階によって、三つに分類したものが、(もん)()(しゅう)の「三慧(さんえ)」です。瑩山禅師様は坐禅用心記の中で、初めて「聞思」という形で三慧に触れていらっしゃいます。「聞」とは聞くことです。法を聞くことであり、お釈迦様から脈々と伝わる仏法がどういうものなのかを自らの耳で聞き、仏法を体得していくことです。「思」は、そうやって聞き得た仏法に対して、色々と思いを巡らせながら、さらに深めて体得していくことです。

そうした「聞思」によって、我々凡夫は仏法とのご縁を結んでいくのですが、「聞思だけでは門の外にいるようなものだ」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「聞思の若きは、諸見未だ休せず、心地尚ほ滞る」とありますように、聞思のみでの成仏得道(仏に近づく)や人心の救済という仏の目標への到達は不十分であり、修の存在も加え、三者が一つでも欠けることなく、全て揃ってこそ、門外から中に入ることができると瑩山禅師様はお示しになっているのです。

そうした修の具体的な実践として、瑩山禅師様は「坐禅」を提示なさっているです。瑩山禅師様は仏の見解を提示しながら、坐禅が「家に還って穏坐する」ような仏行であるとおっしゃっています。自分の家なり自室という個人的なプライベート空間は、自分に自由が利き、疲れた身心を癒やすには最高の場です。そうした場で身心共々にリラックスして過ごすような様が「穏坐」です。「只箇の坐禅は一切休歇して処として通ぜずといふこと無し」とあります。「休歇」はやめることですが、余計なことに思考を巡らせず、身心共々に安らかに過ごしていくのが坐禅であると瑩山禅師様はおっしゃっているのです。

我が家に還って安穏に過ごすように、日常生活から離れ、日々の迷妄や煩悩から解放され、仏のお悟りに触れる機縁となる修行が坐禅なのです。そうした「帰家穏坐(きかおんざ)の坐禅」をお伝えし、少しでも多くの人々が安穏ある毎日を過ごしていただくことを願うばかりです。