第24回「坐禅 ―“無明を断ずる”秘訣―


(しか)して、五蓋(ごがい)煩悩皆無明(ぼんのうみなむみょう)より起る、無明は(おのれ)を明めざるなり、坐禅は是れ己を明むるなり。(たと)ひ五蓋を断ずと(いえど)(いま)だ無明を断ぜざれば是れ佛祖に(あら)ず、若し無明を断ぜんと(ほっ)せば、坐禅辨道最(ざぜんべんどうもっと)も是れ秘訣(ひけつ)なり。


「五蓋の煩悩」という言葉が出てまいります。五蓋は“三毒+2”で、私たちが仏に近づく(成仏得道)するのを妨害する5枚の(ふた)です。その内容は①貪り②(いか)り③疑(愚かさ=因果の道理を疑うこと)④惛沈睡眠(こんちんすいみん)(心が沈んで眠くなること)⑤掉悔(じょうけ)(心が浮き、後悔の念を起こすこと)の5つです。

こうした五蓋の煩悩が生ずる理由を瑩山禅師様は私たちが無明(この世の道理に暗いこと)であるからに他ならないとおっしゃっています。この世に存在する全てのいのちは時間との関わりの中で変化していきます。生まれれば、成長する反面で老い、いつかは消えゆくときがやってきます。まわりには自分とは異なるいのちが存在していて、それらと関わっていかなくてはならない―それゆえに思い通りにならぬ毎日を過ごしていかなくてはならないのです。

そうした現実に対して、そこから逃げ出そうと、自分の思い通りにするなどして、現実を素直に受け止めないから、さらに私たちの苦悩が増していくのです。それが無明ということです。そんな私たちだからこそ、自分とは何かさえ掴むこともできなければ、自己の中の仏性の存在にさえ気づくことができないと瑩山禅師様はおっしゃいます。それが「無明は己を明めざるなり」の意味するところです。

それに対して、坐禅は自己の存在とは何かを体得すると共に、自分の中に存在する仏性と向き合い、仏に成る機縁としての行いだと瑩山禅師様はおっしゃいます。すなわち、私たちが自身の無明を断ずる最適な方法が坐禅だということです。そして、その坐禅によって、お釈迦様始めとする祖師方が無明を断じ、仏に成ったことが「縦ひ五蓋を断ずと雖も未だ無明を断ぜざれば是れ仏祖に非ず」という瑩山禅師様のお示しに顕れているように感じます。

無明を断ずることを願い、坐禅辨道を!辨道とは修行のことです。坐禅を行じ続けていく中で、私たちはこの世の道理を受け止められるようになってくると瑩山禅師様は断言なさっています。無明を断ずる秘訣は坐禅なのです。