第25回「
若
須らく一切の縁を放ち、
身事
妄縁盡
了了
今回の一句は、「古人云く」という形で始まりますが、この古人が一体、誰を指しているのかは明確になっていません。お釈迦様以降の方で、禅のみ教えを体得なさった仏祖であることは間違いないでしょう。その古人がおっしゃるには、「(坐禅を行って)妄想が止まると、我が身心に静寂がもたらされる。我が身が穏やかになれば、
私たちが妄心(迷妄の心、分別する心)を断じ尽くそうとするならば、坐禅をして善悪を考えたり、一切の縁に捉われることなく、ただ坐禅を行ずればいいと瑩山禅師様はお示しになっています。「都来放捨」とは、自分を乱すようなご縁を含め、あらゆるご縁を断ち切ることを意味しています。あれこれ思想を巡らしては善悪に心を用いてみたり、周囲とのご縁を気にしすぎて道から外れた言動を取ったりすることなく、ただお釈迦様のお示しに従い、手を組み、足を組み、姿勢を調え、心静かに身を落ち着ればいいのです。そうした仏に成りきって黙々と坐禅を行じてくことが「第一の用心」であると瑩山禅師様はおっしゃっています。「用心」とは、“火の用心”とありますが、心を配り、注意を払うことを意味しています。ここで瑩山禅師様がお示しになっている坐禅の用心というものをしっかりと押さえておきたいものです。
そうした都来放捨によって仏に成りきっていくとき、私たちに妄心を与える妄縁が尽き、妄心も滅し去っていくのです。「了了として常に知る」とは、妄想や分別が立ち尽くされた明快なる状況を指しています。“寂滅”という身心共々に動きのない状態を求めるのでもなく、“動作”とあるように、闇雲に動き回ればいいというものでもありません。法に従って、坐禅を組み、仏に成りきることによって、妄縁や妄心が断じ尽くされていくのです。