第26回「道者の(しょう)(じょく) ―“只管打坐(しかんたざ)”が生み出すもの―


(しか)して、(あら)ゆる技芸(ぎげい)術道(じゅつどう)医方(いほう)占相(せんそう)皆當(みなまさ)遠離(おんり)すべし。
(いわ)
んや、歌舞伎楽(かぶぎがく)諠諍戯論(けんじょうけろん)名相利養(みょうそうりよう)は、(ことごと)く之に近づくべからず。頌詩(じゅし)歌詠(かえい)(るい)(おのずか)ら浄心の因縁たりと(いえど)も、(しか)も好み営むこと(なか)れ。文章筆硯(ぶんしょうひっけん)擲下(てきげ)して用いざるは、是れ道者(どうじゃ)勝躅(しょうじょく)なり。
是れ調心(ちょうしん)至要(しよう)なり。


今回、瑩山禅師様がお示しになっていることは、仏の道を歩む者は殊更、坐禅を専一に行ずるべきであり、別の道に心を奪われるようなことがあってはならないということです。具体的に芸術や武術、医学、占いといった道が挙がっていますが、瑩山禅師様はそれらの道を否定してらっしゃるのではありません。仏道修行者たる者は、ひたすらに坐禅に励み、坐禅以外の道から我が身心を遠ざけるべできである(遠離)とおっしゃっているのです。

お釈迦様がお亡くなりになる際にお弟子様方にお示しになった最期のみ教えである「仏遺教経」を紐解いてみますと、仏道修行者が田畑の開墾や薬の調合、占い等の道に走りすぎることを戒めていらっしゃる箇所がございます。それらを批判するのではなく、そこに立ち止まって執着しないというのがポイントです。今回の瑩山禅師様のみ教えは、そうしたお釈迦様のみ教えと合致しています。まさに仏弟子たるものの根本は坐禅であり、坐禅を抜きにした仏道修行はあり得ないということなのです。

そして、瑩山禅師様は歌舞伎楽、諠諍戯論、名相利養といったものも、同様にして坐禅の道から見た場合、離れてしかるべき存在であるとおっしゃっています。歌舞伎楽は歌や楽器の演奏のことです。諠諍戯論は言論による争いを指し、名相利養は名誉や利益を貪ることです。これまで幾度も述べてきたように、仏教が三毒煩悩を断つことを説いているという点から見ても、仏道修行者が喧嘩や他者への媚び(へつら)いという行いを慎むべきであることは言うまでもありません。「道者の勝躅(しょうじょく)」とあります。勝躅は「勝れた道行の跡」という意味です。そうしたお釈迦様から脈々と伝わる法の道をただ一筋に歩んできた仏道修行者たちの行跡とは、真っ先に詩歌や書芸術の道を歩んだ故のものではないということなのです。

先日、知人の書家の先生と歓談するご縁がありました。先生は大本山永平寺の宝物殿に展示されている道元禅師様直筆の「普勧坐禅儀(ふかんざぜぎ)」をご覧になられ、道元禅師様の書の素晴らしさを絶賛していらっしゃいました。長い仏教の歴史の中で書に秀でた僧もいれば、医学知識に長けた僧、詩歌に優れた僧、田畑を耕してお寺を守ってきた僧もいます。また、歌舞伎楽が得意な僧もいます。お釈迦様も瑩山禅師様もそうした僧侶やその生き方をむやみに批判しているのではありません。そうした僧侶もまた、今日までお釈迦様の法燈を絶やさずに伝えることに貢献してきた大切な存在なのです。

大切なことは仏の道を歩む僧たる者にとって、まずは専一なる坐禅が肝心だということです。それは別の道においても同じことで、まずは自分の道をしっかりと歩むことです。そうした日々、道に専一に過ごす中でにじみ出てきたものが、別の道にも反映され、人々を喜ばせ、法を伝えていくきっかけになるのであれば、別段、問題視することはありません。本格的な禅者の仏道修行の賜物たる書も詩歌も音楽には、本格的なその道のプロとは一味違った“味わい”があるような気がします。