第12回「世事(せじ)参預(さんよ)するということ」


世事(せじ)参預(さんよ)使命(しみょう)通致(つうち)し、咒術(しゅじゅつ)仙薬(せんやく)し、
(よし)
みを貴人(きにん)に結び親厚媟慢(しんこうせつまん)することを得ざれ
皆作(みなさ)に応ぜず

“浄戒を持つ(悪いことはしない、よいことをする)”ことを自らの使命とし、生き様としている僧侶(仏道修行者)ならば、注意すべきことがあるとお釈迦様はおっしゃっています。それが今回の一句です。お釈迦様は、この前にも必要以上に田畑を耕したり、家畜を育てたりすることなどを戒めていらっしゃいますが、今回、お釈迦様は新たに2つのことをおっしゃっています。

一つ目には、必要以上に修行と関わりのない世間の仕事に関わっていく必要はないということです。それが「世事に参預(さんよ)使命(しみょう)通致(つうち)し」の意味するところです。

明治5年(1872年)に明治政府より通達のあった「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべしこと」というお触れは、これまで江戸幕府の統制化にあった僧侶の管理を新政府では行わないという意味の通達でしたが、これによって、政教分離が進み、僧侶に自由が与えられることになりました。僧侶の食生活、僧侶の結婚と家庭を持って親になること、僧侶の髪型等が僧侶個人の意思で決めることができるようになったのです。

この通達によって、僧侶が本来の仏道修行者であるという使命を忘れ、俗化したと指摘する声もあります。事実上、僧侶が家庭生活を営み、子どもを養育していくことが各自の自由になったのであれば、やむを得ず世事に参預せざるを得ない場面も出てきます。現実に僧職以外に仕事を持つ僧侶も大勢いらっしゃいます。また、世間の人と関わりを持つ中で肉食の場面に出会うこともあります。そうした状況を見て、一方ではお釈迦様のみ教えに反するから退けるという考え方があるのもわからないわけではありません。

しかしながら、明治以降、多くの僧侶がそうした世事に参預しながらも、仏法は今日にも伝わっているのです。もし、世事に参預する僧侶の姿勢が仏法から逸れたものだったならば、今日に仏法が伝わることはなかったと思うのです。お釈迦様のみ教えに忠実に仏道修行一筋に生きてきた僧侶もいれば、世事に参預しながら生きてきた僧侶もいて、仏法は今も我々の生活の中に溶け込んでいます。そこには、世事に参預せざるを得なかった僧侶も仏道修行者であるという原点を忘れずに、世事と修行を両立させ、必要以上に世事に参預しなかったということもあったのではないかという気もします。

尚、咒術(不思議な術)や仙薬(飲めば仙人になれるというような不思議な薬)に関わることが、必要以上に世事に関わることになり、戒めるべき対象となるのは言うまでもありません。

2つ目に「好みを貴人に結び親厚媟慢することを得ざれ」とあります。これは「自分の好みによって相手に対する態度を変えない」という、これまで幾度となく学ばせていただいた大切なみ教えです。相手の地位や性別といった見た目の情報だけでその関わり方を判断することは、差別的な関わり方につながっていきます。いつの世も自分の考え(好み)だけで人と関わる人間はいますが、それはお釈迦様が在世していらっしゃった時代も同じだったようです。どうやら、それが人間の本性の一面であり、そうした一面に注意していこうというのが、お釈迦様の時代からの人間の生きる上での課題だったことが伺えます。

特に世事に参預し、僧侶や檀信徒以外の人とも関わることが多い現代の僧侶にとって、「好みを貴人に結び親厚媟慢することを得ざれ」というみ教えにも十分に注意しておかなければならないと思います。