第27回「調身の要術(ようじゅつ)その1 ―“中道”の服装に学ぶ身の調え方―」

美服(びふく)垢衣(くえ)とは(とも)着用(ちゃくよう)すべからず。
美服は(とん)を生ず、又は盗賊の(おそ)れ有り、故に道者の障難(しょうなん)()る、
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因縁(いんねん)有り、若し人の施與(せよ)する有りとも、
而も受けざるは古来の嘉蹤(かしょう)なり。
(たと)(もと)より之れ有りとも又照管(しょうかん)せざれ、
盗賊劫奪
(とうぞくごうだつ)
すとも追尋(ついじん)恡惜(りんじゃく)すべからず


前回は坐禅に向き合う心構えとして、他の道に寄り道する前に、まずは坐禅をしっかりと行うことが大切であるというお示しが提示されました。

今回、瑩山禅師様は“姿勢を調える”(調身)という点から、坐禅について触れていらっしゃいます。坐禅をする際、身体がグラグラふらつくことがないよう、しっかりと足を組んで身体を支え、背筋を伸ばします。姿勢を調えるというと、私たちはこうした背筋を伸ばすことだと思いがちですが、それは一つであり、調身とは、そうした限定的なものではありません。たとえば、私たちが普段、身につけている衣服についても、あまり華美すぎず、また、みすぼらし過ぎず、その場に応じたもので、周囲の人々に不快感を与えないようなものを心がけることも姿勢を調えることに含まれるのです。瑩山禅師様は「美服と垢衣とは俱に着用すべからず」とおっしゃっています。これが衣服を調えるということです。瑩山禅師様がそうおっしゃるのは、華美な服装はよりよいものを目指そうとする貪りの心を生み出したり、盗みの心を芽生えさせたりするからです。華美すぎるとかみすぼらし過ぎるというのは、どちらか一方に過度に偏ることであり、ほどほどで偏らない・捉われないをよしとするお釈迦様の「中道」からも外れてしまいます。そうした中道から外れることが、「道者の障難」になると瑩山禅師様はおっしゃいます。

そして、瑩山禅師様は続けます。「美服や垢衣を人様からいただくようなことがあっても、それを受け取らないのが仏祖の古来からの嘉蹤(かしょう)である。」と。嘉蹤は手本や規範を意味します。道者たる者は華美すぎたり、みすぼらし過ぎたりといった偏ったものは受け取らないものだということです。それほどまでに道に徹底し、自らの姿勢を調えてきたのが禅の道に生きる者なのです。

次に「照管(しょうかん)」という言葉が出てまいります。これは、美服を所有していても、美服だと特段に意識しないようにするということです。美とか醜といった周囲を分別して捉える意識が仏の道から外れることは、もはや声を大にして申し上げるまでもないことでしょう。そして、そうした美に捉われることが、「恡借(りんじゃく)」という惜しむ気持ちを生み出したり、盗賊に強奪された場合、警察を呼んで追い回すなどの大騒ぎをしたりすることにもつながっていくのです。

中道ということを心がけながら、調心(我が心を調える)を目指すとき、我が身も調っていくのです。それが「調身」です。逆に我が身が調うことで、心が調うこともあります。坐禅をすると、そのことに気づくことができます。私たちの身と心はお互いにつながり、補い合い、支え合っている存在なのです。だから、どちらかが調えば、それに伴い、もう一方も調っていくのです。そのことを踏まえ、日頃身につける衣服に細心の注意を払い、姿勢を調えて日々を過ごしていきたいものです。