第39回「睡眠の捉え方A ―睡眠を貪ること無かれ!―」
睡眠の因縁を以て一生空しく過して所得なからしむること
「お釈迦様のみ教えは“中道”でしかない」と強く断言しても過言ではありません。それは捉われないことであり、偏らないことです。ですから、食事をしないことや睡眠をとらないことは否定されます。逆に食べ過ぎや寝すぎもよろしくありません。そうした両極端ではない“ほどほど”の言動を発することが「中道」なのです。こうした中道の背景にはお釈迦様がご自身が35歳のときに坐禅修行を通じてお悟りを得るまでの6年間、断食等で身体を痛めつける苦行を経験なさったのですが、何も得るものがなかったことに由来するものなのでしょう。
前段において、お釈迦様は「日中に善法を修する」という生き方をお弟子様に遺誡なさっています。これは昼間は仏のみ教えを念じ、道一筋に生きることをの勧めたものです。こうした善法に生きるためには、衣服・食事・睡眠の三者が不足していてはなりません。すなわち、調った生活をしていく上で、衣食住がバランスよく調えられ、充たされていることが欠かせないということをお釈迦様はご自身の実体験も踏まえた上で、我々にお示しになっているのです。
そうした「善法を修する」ことを心がけていく上で、場合によっては中夜(現行22時〜翌朝3時)に読経して過ごした方がよければそうすればよい、休息を取った方がよければ取ればよい、それぞれの時間の中でどう過ごすことが「善法を修する」ことにつながるかを、自分で考え実行していくことが、「自ら消息せよ」に込められたお釈迦様の願いです。「消息」とは、音信や手紙という意味もありますが、ここでは行動するか休みを取るかを自ら選択し、判断することを意味しています。
次に「睡眠の因縁を以て一生空しく過して所得なからしむること無かれ」とあります。睡眠の因縁とは睡眠の意味始め、睡眠による結果と捉えるべきでしょう。それらは既にお釈迦様によって示されていることです。お釈迦様はそれを今一度、踏まえ、「休むときは休み、活動するときはしっかりと活動して、昼間も眠りこけて、睡眠を貪るような堕落した生活を慎むこと」をお弟子様方に示し、我々に願っていらっしゃるのが、この一句です。
若い頃は徹夜や夜遅くまでの飲酒による短時間の睡眠でも翌日はがんばれましたが、加齢とともにそれが難しくなってきていることを感じずにはいられません。中には自分は大丈夫と思っている人もいるようですが、傍から見れば、ものの考え方や判断力にムラがあり、休息を取れていないときほど、疑問を感じるものを提示してしまうように見えます。睡眠の因縁を知り、寝すぎず、起き過ぎず、睡眠を貪ることがないように―。