第40回「無常を観ずる」

(まさ)に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度(じど)を求むべし

仏道を歩む上で、この世が「無常」であることを理解・体得しておくことは必須です。「無常」とは、‟常が無い”とあるように、万事が変化していくということです。私たちが生かされている人間世界には‟時間”という存在があります。私たち一人一人が時間と関わりながら毎日を過ごしているがゆえに、生まれたいのちは成長する一方で、やがては老い、病を患い、死を迎えていきます。これが「無常」です。

よく言われるのは、我々日本人は「平家物語」に出てくる‟祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というフレーズの印象が強いせいか、無常というと、寂しさや悲しさをイメージしてしまうようです。また、我々は変化に対して、大なり小なり抵抗を感じるようで、老いや死については、無意識の中で無変化を願い、マイナスのイメージを持ってしまうようです。

しかし、変化というのはマイナスばかりかと言えば、そうではありません。幼い子どもは様々な可能性を秘めながら成長し、それぞれの花を咲かせることができます。また、精進努力によって、芸術でもスポーツでも、色々な道を究めることもできます。これらはプラスの変化ではないでしょうか―?大切なことは変化についても、自分の価値観だけで好悪や良し悪しを決めずに、どんな変化も受け入れていくということです。プラスの変化ならば、それを支えにして、更なる成長を目指せばいのです。逆にマイナスだと感じる変化ならば、それを素直に受け止め、プラスに転じられる可能性があるならばそれを目指せばよいし、それが難しそうならば、現状の中で喜びや幸せにつながるものを見つけ出していけばよいのです。そうした姿勢を心がけて日々を過ごすことが大切であり、それが「無常を観ずる」ということなのです。‟感じる”ではなく、観音様の‟観”となっているのも大きな意味があります。それは無常という道理を広く見渡し、深く見通していく姿勢が大切だということです。

「無常を観ずる」ことができるかどうかは、仏道に限らず、我々の日常生活にも大きく影響していきます。時間は私たちを待ってはくれません。もちろん、私たちの身勝手な都合で止まったり、早まったりすることもありません。一定のペースで未来に進むだけです。そのことを熟知(我が身に念じ込んでいること)している者は、「今」を大切にしようとします。それは「今」が二度と帰ってこないことがわかっているからなのです。ですから、どんなに面倒だと思うことも後回しにせずに、「今」やるのです。その背景には無常という現実が大火の如く恐ろしいものであることに直面し、幾度も苦しいことを経験てきた姿があるはずです。

そうやって無常という現実に何度も向き合う中で、人間はプラスの成長を遂げ、仏のお悟りに近づき、人生が充実していくのです。それが「自度」なのです。