第29回「調身の要術(ようじゅつ)その2 ―食に留意する―」

一切の生物(しょうもつ)堅物(けんもつ)乃至損物(ないしそんもつ)不浄食(ふじょうじき)は皆之を(くら)ふべからず。
腹中鳴動(ふくちゅうめいどう)身心熱悩(しんじんねつのう)して打坐(たざ)に煩ひ有り。
一切の美食耽着(びしょくちんぢゃく)すべからず、()だ身心煩ひ有るのみにあらず、
貪念未
(とんねんいま)
だ免れざる所なり。


前回、瑩山禅師様は「三不足(さんふそく)」というみ教えを掲げていらっしゃいました。これは、不足すると仏道修行の妨げとなる3者(衣服・食・睡眠)のことです。

三不足にならないように留意し、身心を調えることの大切さはお釈迦様もお示しになっています。「仏遺教経」には「昼は勤心(ごんしん)に善法を修す」とあります。日中の明るい時間は怠けて(いたづら)に過ごすようなことなく、自分の道をしっかり歩んで過ごすことが肝要であるということです。

そうした調った日中の過ごし方なり道の歩み方について、瑩山禅師様が「食」の観点からお示しになっているのが今回の一句です。生物とは“ナマモノ”のことで、堅物とは消化の悪いもの、損物は賞味期限が切れるなどして腐敗したものです。損物を口にすれば、腹中鳴動(腹痛)、あるいは、身心熱悩(発熱等、病を患うこと)を引き起こすことは言うまでもありませんが、ナマモノや消化の悪いものも十分に注意を払っていただかなければ、身体が不調を訴え出します。

損物などが身体に悪影響を及ぼすのと同じように、美食(おいしいご馳走)ばかり求め、貪ることは心や言動に悪影響を与えてしまいます。人間は一つのことに対して、自分の好み(好き・嫌い、良し・悪し など)で二分して捉えてしまうところがあります。そのために、選ばなかったものの価値に気づかず、二分した両者に差をつけることになるのです。美食を貪ることは、ご馳走にばかり目がくらみ、そうでないと感じた食を粗末にし、果ては、その食を生産してくださった方々や調理してくださった方々に対する感謝の念を失わせます。それは仏の道もさることながら、一般的な食のマナーからも外れたものであります。人間として慎むべき行為でありましょう。それが美食を貪ることによって、身心に煩いを与えるということです。

食に対しても衣服同様、見た目の良し悪しや味の良し悪しに捉われて、食の是非を決めるような関わり方はせず、どんな食も携わってくださった方々に思いを馳せながら、感謝していただくと共に、自分の身体を調え、「昼は勤心に善法を修す」ることができる程度の量を弁えて、いただくべきことを心に念じて、食をいただきたいものです。