第35回「一日不作一日不食(いちにちなさざればいちにちくらわず)


やるべきことはしっかりとこなし、空しく一日を過ごさない


一日≠ヘ「その日」や「24時間の終日」を意味する言葉です。その「一日」において、為すべきことをきちんとこなして過ごすことは、決して、難しいことではありません。意識して心がけていけば、誰でも行えることです。もし、それができなければ、どんなにお腹がすいても、「為すべきことをしない自分には食事をいただく資格がない」と我が身に強く言い聞かせるくらいに、一日を空しく過してはならないと戒めているのが、「一日不作一日不食」です。

この禅語は古代中国の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師(749−814)のお言葉です。大いに禅風を鼓吹し、中国の禅宗史上に名を連ねる懐海禅師の元には多くの修行者が集い、やがては百丈山大智寿聖禅寺というお寺が建立されたくらいです。そうした中で、修行道場における規則が記された「百丈叢林清規(ひゃくじょうそうりんしんぎ)」が誕生、後の禅林における規矩(きく)(規則)の原点となりました。

そうした自ら定めた規定を自ら遵守し、亡くなる日が訪れるまで、ひたすら仏道修行に勤しんできた百丈禅師。ある日、お弟子様たちが禅師のお身体を心配し、掃除を止めることを求めるも、禅師は一向に耳を貸さず、掃除を続けました。そのため、ついにお弟子様たちが掃除道具を隠してしまったというのです。

道具がないので、掃除ができなくなった百丈禅師にお弟子様たちの願いが通じたのか、その日は禅師様は終日休息を取られました。しかし、その代わりに、終日食事も召し上がられませんでした。「為すべきことも為さず、終日、休息していた人間に仏飯(ぶっぱん)(食事)をいただく資格はない」とおっしゃる百丈禅師。禅師の仏道修行に対する厳しい捉え方と、自らに対する厳しさが伝わってくる逸話のように思います。

百丈禅師様のように、自らの道や生き様にかくも厳しく向き合うことは至難の業かもしれませんが、こうした厳しさを忘れずに一日一日を大切に過ごすことが、充実した毎日を送ることにつながっていきます。そして、そうした日々の過ごし方によって、私たちの歩む道が開け、大成していくのです。自分たちの日常を振り返りながら、為すことも為さず、怠けて過ごしているのならば、仏飯をいただく資格はないくらいに自己と厳しく向き合い、いただいた時間といのちを無駄にせずに過していきたいものです。