第34回「調息の法② ―自然に任せる―」


調息(ちょうそく)の法は(しばら)く口を開き張り、
(ちょう)
なれば長に任せ、(たん)なれば短に任せ、
漸漸
(ぜんぜん)
に之を調え、稍稍(せつせつ)として之れに随ふ、
覚触来(かくしょくきた)る時息然(そくねん)調適(ちょうてき)す。
(しか)
して後鼻息(のちびそく)は通ずるに任せて通ずべし。


坐禅中の呼吸である「調息」について、具体的に記されているのが今回の一句です。「欠気一息(かんきいっそく)」(身体の中の空気をゆっくりとすべて吐き出すこと)の後、口を開いて通常通りの呼吸をします。このとき、長い呼吸になったならば長いままにして、短ければ短いままにすればよいと瑩山禅師様はおっしゃっています。すなわち、坐禅には決まった呼吸だとか、手本とすべき呼吸があるわけではなく、ありのまま、自然のままに任せ、普段通りに特別な意識を持つことなく呼吸をすることで、調息が実現していくというのです。‶漸漸に〟とか、〝稍稍として〟という言葉が使われておりますが、いずれも‶次第に〟とか、‶だんだんと〟といった意味を持つ言葉です。過度に遅速両極端な状態だったり、特定の方法を重視して、そこに捉われていたりするようでは、呼吸が不自然になります。鼻と口を通る空気は自然のままに、我が身の全てを自然に任せていく中で、呼吸の覚触(感触)も自然な状態に調っていきます。それが調息なのです。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、「夏の甲子園」が「春のセンバツ」に引き続き、中止の方向で検討に入っているとの報道がありました(令和2年5月16日付 北國新聞)。この報道に対して、近年、高校野球の世界でも躍進が顕著な日本航空高等学校石川(輪島市)の中村隆監督が「正式発表されていない段階では、大会があると思って準備するしかない」とコメントされました。私は監督のコメントに賛同です。なぜならば、この根底には不要な先読みをせず、現況を的確に捉えながら、我が身を周囲に委ねるといった調息のみ教えが感じられるからです。

今回のコロナは、我々がこれまで当然としてきたことが本当に正しかったのかを問う機会になっているように思っています。たとえば、これまでの私たちは、ときに自分の専門外のことにも視野を拡げながら、5年後、10年後のことを見据え、先を読むことに必死だったように思います。しかし、そうやって私たちは一体、何が取得できたのでしょうか。どんな救いをがあったのでしょうか。的確に先を読むことができれば、今回のコロナもある程度は事前に対処でき、かほどに感染拡大することもなければ、多くの人のいのちを守ることだってできたはずです。

先を見るといっても、私たちができることは、目標を立てることです。5年、10年先を見据えて、設定した目標の達成に向けて計画を立て、計画通りに進みそうもなければ、計画を見直して、改善していくのです。ビジネスの世界に「PDCAサイクル」という言葉があります。Plan(計画)、Do(実行)、Check(確認・見直し)、Action(改善)を円を描くように繰り返して行うことです。何も無理に未来を把握しようとする必要はありません。確実に把握できるのは今です。それを踏まえ、今の状況を冷静に捉えながら、目標達成を目指し、計画的に行動していくことで、よりよい未来を生きることにつながっていくことを再確認しておきたいものです。

ひょっとすると、我々現代人に不足しがちなのは、「自然に身を任せる」という姿勢なのかもしれません。強制的に周囲の環境を自分の都合のいいように変えながら、未来を作っていくのではなく、ときに我が身を周囲に委ねつつ、現況を冷静に捉え、未来を描いていくように視点を切り替えたいものです。コロナはそんな機会を私たちに与えているように感じます。