第3回 「観世音菩薩の語らい ―“中道”を歩む―」



舎利子(しゃりし)
色不異空(しきふいくう)
空不異色(くうふいしき)
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
受想行識(じゅそうぎょうしき)
亦復如是(やくぶにょぜ)


高源院の住職を拝命したばかりの頃です。あるお檀家さんから「お経はその内容がわからないと、なかなかありがたみが感じられない」と言われたことがあります。その言葉がきっかけとなり、私は経典に目を通すようになりました。とてもありがたいことだと今も感謝しております。

このお檀家さん始め、人々の宗教に対する見方は常に変化しております。その中でも「わかりやすさ」を求める声は近年、大きくなっているように思います。たとえば、法要儀式において、解説(司会進行)をさせていただくことがありますが、一般には何をやっているかわからない法要所作の意味を端的に解説していくと、参詣者が喜んでくださいます。参詣者の知りたいという願いに応じることも、布教であり、救いの手を差し伸べることにもつながっていくと思います。

とは言え、「普勧坐禅儀」の中にもありましたが、人間の生き方を説く宗教には言葉だけでは語れないものがあります。その点も押さえた上で、お経の意味を知り、ありがたみを実感できるようになれたらと願うのです。す

前置きが長くなってしまいましたが、前段において、観世音菩薩様はこの世が「諸行無常」であることをお悟りになりました。その上で、観音様は冒頭にある「舎利子(しゃりし)」に語りかけるのが、今回の箇所です。「舎利子」とはお釈迦様の十代弟子のお一人である「シャーリプトラ」のことです。釈尊亡き後には後継者になるだろうと言われた人物で、特に「智慧第一」と言われました。そんな「舎利子」でしたが、お釈迦様の死期が迫ったのを知り、没後の寂しさを思うと耐え切れず、自没してしまいます。師匠であるお釈迦様より先にいのちを落としてしまったのです。後継者が自分より先に逝ってしまうという辛い経験をなさったお釈迦様は悲しみに暮れながらも、お弟子様たちに「いのちあることのありがたさ」を説かれました。

観自在菩薩様は舎利子に語りかけます。「色不異空(しきふいくう)」―この世に存在するすべてのものが絶えず変化する実体のないものだと。そして、「空不異色(くうふいしき)」とあります。実体がないということがこの世なのだと仰るのです。

さらに読み進めると、「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)」と続きます。ここでは、目の前にあるすべてのものには永遠に存在するものがなく、そうした永遠に存在しないものが目の前にあるとおっしゃっています。

人間は自分の都合のいいようにものごとを考えます。愛しいものや大切なものは永遠に残しておきたい。死にたくない。いつまでも美しくいたい。いつまでも若さを保ちたい。そうした思いは誰しも持っています。現実には、それが叶うことは、不可能であるということがわかっているのに・・・。

そんな人間に対して、この世の道理(本来のあるべき現実の姿)を示しているのが、「色即是空。空即是色」という部分です。不可能なことを可能にしようとするから、人間は不要な苦しみを感じるのです。「諸行無常(万事が変化する)」という、この世のしくみを受け止めた上で、何ごとにも捉われない、執着しない生き方を心がけていきたいものです。

続いて、「受想行識(じゅそうぎょうしき)亦復如是(やくぶにょぜ)。」とあります。「受」とは受け入れること、「想」とは目や耳で感じ取ること、「行」とは感じて反応すること、「識」とは反応して判断することです。人間の感覚によって得られたものもまた、「空」、つまり絶えず変化するというのです。これは言い換えるならば、万事が無限の可能性を秘めているということです。一面的なものの見方や耳の傾け方をやめて、常に多面的に見たり聞いたりすれば、物事の価値に気づくというのです。そうした多面的で偏らない観方で人生を歩むことを「中道(ちゅうどう)」と申します。中道を意識しながら、明るく健やかに生きる道を歩くことになるのです。