第43回「持戒の鉤もて、安眠の毎日を!」


(まさ)持戒(じかい)(かぎ)を以て早く之を屏除(びょうじょ)すべし。睡蛇既(すいじゃすで)()でなば乃ち安眠すべし、出でざるに(しか)も眠るは()無慙(むざん)の人なり。


三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)の三者は、誰もが持っていて、生きている限り、完全に無くすことができません。お釈迦様はこの煩悩を「毒蛇」だとか、「睡蛇」であるとおっしゃっています。まさに猛毒のごとき人々を苦しめる存在であったり、あらゆる手段を用いて人々を怠けさせようとしたりする厄介者だということです。

そうした私たちの中に眠る魔物を表に出さないように手なずてくれる‶(かぎ)〟のごとき存在が「持戒」であるとお釈迦様はお示しになっています。戒とはお釈迦様のみ教えに従い、悪を断ち、善を修して日々を過ごすことです。お釈迦様はご自分の亡きあとは、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)(戒)を敬い、大切にしていってほしいとお弟子様たちに願っていらっしゃいます。そうした戒を日々の生活の中で意識し、実践し続けていくことが「持戒」です。

そうしたお釈迦様のお弟子様たちへの願いを、自分たちに対する願いと受け止めたいものです。私たちが持戒の日々を過ごしていくとき、自分の中に存在している睡蛇という厄介者の存在が屏除(いなくなること)され、いよいよ私たちに安眠がもたらされるとお釈迦様はお示しになっています。すなわち、自分を乱す存在がいなくなれば、安らかに過ごせるようになるというのです。そうした厄介者を表面化させないよう、‟見える化”ならぬ、‟見えない化”して、我が身心を調えていきたいものです。

そうした心がけを怠り、煩悩を放ったらかしにしたまま、身も心も調えようともせず、自分は大丈夫だと安心して毎日を過ごす人間を、お釈迦様は「無慙の人」と断じていらっしゃいます。これは悪事を働いているのに、恥じることなく過している人間を意味しています。

「無慙の人」と言われて、色々な人の顔が浮かんでくるかもしれませんが、まずは、自分自身が日々の生活を振り返り、「無慙の人」ではないかを確認しておきたいものです。その上で、持戒によって、安眠の毎日を過ごせることを願うばかりです。