第44回「慙恥(ざんち)の服の“必着”」

慙恥(ざんち)の服は諸の荘厳(しょうごん)()いて最も第一なりとす。
慙は鉄鉤(てっこう)の如く、能く人の非法を制す。是の故に比丘常に当に慙恥すべし。(しばら)くも()つることを得ること勿れ。


前段において、お釈迦様が我々に持戒(じかい)(お釈迦様のみ教えに従って、言葉や行いを調えていくこと)によって、身心を調え、安穏の毎日を送ることを願っていらっしゃることが確認できました。また、お釈迦様は自分の中の三毒煩悩(貪り・(いか)り・愚かさ)を放置したまま、身心を調えようとしない人間を「無慙の人」(恥知らずの人間)と断じていらっしゃいました。それらを踏まえ、今回の一句を味わってみたいと思います。

まず、「慙恥の服は諸の荘厳に於いて最も第一なりとす」とあります。「荘厳」とは美しく装うことです。お寺の本堂には五色幕や黄金の仏具等がありますが、いずれもが本堂にありがたみを演出し、お参りする方々の心にやすらぎを与えてくれる欠かすことのできない「荘厳」です。また、日常生活の中で、服や装飾品等に気を配り、お洒落に着飾っている人はたくさんいらっしゃいます。これも荘厳と捉えることができるでしょう。

そうした様々な荘厳の中でも、お釈迦様が我々に装着を願うのが「慙恥の服」です。これは、「恥を知る」という服装です。“慙”には‶斬る〟とあるように、恥をかいて、心を切られるような思いをするという意味があります。また、恥には自らの言動をやましく感じるという意味が含まれています。持戒は何かの拍子に私たちを正道から外そうとしてくる三毒煩悩を手なずけ、調整してくれるみ教えで、まさに鉤のごとき存在です。そのことを強く自らに念じ込み、日々の生活の中で実践していくことが「鉄鉤」という、鉄のように固い鉤という言葉に込められているように思います。

そして、そうした「慙恥の服」を身にまとって生きていくことで、非法を制するとお釈迦様はおっしゃいます。悪を断ち、善を修することにつながるというのです。それゆえに「慙恥の服」は何があっても、脱ぐことなく、捨てることなく、身につけていてほしいとお釈迦様は願うのです。

そうした「慙恥の服」を意識すると共に、‶必着〟(必ず着るという意)して、毎日を過ごしてきたいものです。