第35回「調心 “奢り”や“勘違い”に向き合う」

心若(こころも)し、(あるい)は沈むが如く、或は浮ぶが如く、
或は(もう)なるが如く、或は利なるが如く、
或は室外通見(しつがいつうけん)し、或は身中通見(しんちゅうつうけん)し、
或は仏身を見、或は菩薩を見、或は知見を起こし或は経論に通利(つうり)す、
(かく)
の如き等の種々の奇特(きとく)、種々の異相(いそう)(ことごと)く是れ念息不調(ねんそくふちょう)(やまい)なり。


調身(姿勢を調える)、調息(呼吸を調える)と来て、今回からは「調心」について触れられていきます。これは読んで字の如く、「心を調える」ことです。

私たちは、周囲の様々な存在と関わり合って生かされており、そこから色々な影響を受けて、毎日を過ごしています。そうした中で、私たちの心は変化します。気分が沈んでいるときもあれば、浮かれているときもあります。頭の中が朦朧としていて何も手につかないようなときもあれば、色々なことが見えてきて、事がすらすらとはかどるようなこともあります。

そうした心の変化というものは、坐禅をしているときにも現れます。よく起こるのは、坐禅をしながら、お釈迦様のように悟ったような気分になることです。姿勢や呼吸が調うと、心が落ち着いてきます。それは言葉で表現するのは難しのですが、敢えて申し上げるならば、澄み切った青空のような清々しいもので、実際に坐禅を修行し続けていかないと体得できない境地ではないかと思います。それまでは煩悩にまみれ、汚れていた心が、坐禅によって浄化されていけば、自分の中に存在していた仏性(ぶっしょう)(仏の心・性質)に気づくのですから、自分はお釈迦様のように悟ったと感じたり、観世音菩薩様のようなありがたい存在だと思ってしまうのでしょう。

こうした奇特(奇妙特別な珍しくて勝れていること)なことは、坐禅をし始めて、しばし慣れてきたかなというときに起こりやすく、私自身もそうした心の変化の経験者です。坐禅によって、今まで知らなかった自己の尊さに巡り合い、心が澄み切ったままの状態で毎日を過ごせるのならば何ら問題はありません。しかし、いつしか、澄んだ心に「(おご)り」という暗雲のごとき存在が生じてしまうのです。「自分は悟りを得て、お釈迦様のようなすごい人になったぞ」というような心境になるのです。そして、その奢った心持ちで言葉や行いを発するのですから、決して、よろしいことではありません。

こうした心の変化の背景には、坐禅をしている自分と、そうでない周囲の人々との関わりの中で、知らず知らずのうちに自分と相手を比べ、坐禅をしている自分が尊いと思い込んでしまう“勘違い”が存在しています。これを
瑩山禅師様は、「念息不調の病」とおっしゃっています。これは坐禅に限らず、どんな道でも必ず起こる慣れによる奢りや勘違いです。この対処法は、自分で気づき、調整していくしかありません。そのためにも、道を究めていく上で、慣れや勘違いは必ず通る通過点であることを知って、道を歩んでいきたいものです。