第45回「“人生の引き出し”を増やす」

()慙恥(ざんち)()すれば、(すなわ)(もろもろ)の功徳を(しっ)す。有愧(うぎ)の人は則ち善法あり。若し無愧(むぎ)の者は諸の禽獣(きんじゅう)相異(あいこと)なること無けん。


試しに、お釈迦様がお示しになっている「慙恥(ざんち)の服」(恥を知る)という荘厳を身にまとってみると、自分の過去の行いにハッとさせられ、大いなる反省をもたらされると共に、自分の行いを正しながら毎日を過ごしていこうという決意が沸き起こってきます。多忙な毎日を過ごす中で、ときに自分と心静かに向き合い、「慙恥の服」に袖を通す機会を設けていきたいものです。

我が人生を振り返ってみますと、赤面するような言動ばかりとっていたことに気づかされます。人様によく見られようと、無理に背伸びをして、却って反感を抱かれたこと。冷静に対処すれば済むことなのに感情的に出てしまい、周囲に不快感を与えたこと。時が逆戻りするのならば、やり直したいと思うようなことが多々あります。しかし、過去を悔いてもどうにもなりません。それよりもお釈迦様のみ教えに従って、善法に生きることを心がけていくことが大切です。そして、それが明るい未来を過ごすことにもつながっていくのです。

善法に生きてみると、あることに気づかされます。それは、お釈迦様のみ教えは人生の引き出しになるということです。引き出しとは対処法と言い換えることもできます。すなわち、私たちの悩みや困り事といった、人生を歩む上で必ず巡り合う苦悩を解決する方法です。「Aの方法でやってみたが、あまりうまくいかないので、Bの方法でやってみた。そうすると、成功した」という具合に、対処法が多ければ多いほど、私たちは冷静かつ安らかな気持ちで毎日を過ごすことができるのです。そして、そうした毎日が周囲に功徳(喜びや安心の提供)をもたらしていくのです。

ですから、お釈迦様は「慙恥を離すれば、功徳を失す」とお示しになっているのです。漸恥の服を着用した「有愧の人」は、恥を知って、善法を修するのです。それに対して、慙恥の服を着ない「無愧の者」は、恥を知らないので、善法を修することもなく、功徳を生み出すこともありません。まさに、禽獣(鳥や獣)と大差がないとお釈迦様はおっしゃっています。

そういう意味で、私たちが「慙恥の服」を着て過ごすことは、我が身心を調え、仏法と共に生きていくことであると言えます。そして、そうすることで私たちの“人生の引き出し”がどんどん増えていくのです。