第3回  「仏教徒の課題 ―仏に成るということ―

(しょう)(あき)らめ死を明きらむるは
仏家一大事(ぶっけいちだいじ)因縁(いんねん)なり


「修証義」の始まりとなる今回の一句。そこでは「自分がどう生きて、どう死ぬのかをはっきりさせながら日々を過ごすことが、仏教徒にとって大切な課題である」と述べられます。これは「私たちがどう生きて、どう死ぬのかを日々の生活の中ではっきりさせながら過ごしていこう」ということです。具体的にどうすればいいのかについては、この後から順次、説明がなされ、具体化されていき、最終章である第5章の最後で明確に提示されます。

当然ながら第5章の最後の一句は各章のみ教えを全て網羅した上で生み出されたものです。ですから、答えがあるからといって、すぐに当該箇所を見ても、何か納得がいくような解答は得られるわけではありません。どんなに時間がかかろうとも、結論に至るまでの道筋を一つ一つ丹念に味わっていくことで、いつか青い実が太陽の光を浴びて食べ頃に熟すように、何かを得るときがやってくるものです。それが「悟り」であり、「成仏」ということなのです。
『「成仏」って死んだ人のことであって、生きている我々には関係ないんじゃないか?』と問われそうですが、成仏は生きている人にも大いに関係があります。というより、生きている人こそ大切な課題なのです。

「成仏」を和文に読み下してみると、「仏に成る」となります。「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」の中で「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉が出てまいります。これを道元禅師様は「一切は衆生にして悉有なり、仏性なり」と読みました。「一切(全ての存在)にはいのちが存在し、仏の性質を持っている」というのです。私たちの眼から見れば、人は人でしかなく、木は木でしかないのですが、仏様の悟りの眼で観ると、すべてが仏になる可能性を秘めた仏であるというのです。仏であるならば、悩める人々に救いの手を差し伸べてくれる存在ということになるのですが、私たちが仏の眼を得て、一切の存在を観ることができれば、全ての存在が仏の可能性を秘めていることに気づかされるのです。

「仏教徒の課題」である「成仏」―それは私たちが自分の中に眠る仏性をしっかりと磨きながら、まわりの存在の仏性を見極めることでもあるのです。