第40回「破草鞋(はそうあい)


破れた草鞋(わらじ)の如き、役に立ちそうにないものも、自分の人生の肥やしになっていく


以前は、檀務(お檀家さん宅への月参りや葬儀、法事)に出向く際には、「雪駄(せった)」(丈夫なサンダルのような履物)を使用していましたが、ここ数年は黒い皮靴を使用しています。急な雨等で、足元が濡れたままお檀家さんのお宅にお邪魔することがないようにするためです。買ったばかりの靴は光沢もあり、見栄えはいいのですが、堅くて足になじんでいないのが難点です。ですが、そんな靴も、毎日使用する中で、段々、我が身に馴染んでいきます。これは靴に限らず、電化製品や服にでも当てはまることでしょう。

現代のように道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、人々は外出時には、草鞋(わらじ)を履いていました。草鞋も靴同様に、使っていく中で、次第に馴染んできます。そして、そのうち磨り減って、使用できなくなるときがやって来ます。

そんな磨り減った(破)草鞋のように、私たちも日常生活の中で様々な経験を積み重ねながら、日々を過ごしてます。うれしいことや成功したこともあれば、失敗や恥ずべきこともしています。特に後者は思い出したくないことであったり、あまり役に立ちそうもないことだったりするようにも思われます。しかし、実はそうではありません。失敗も恥も、全てが自分の人生の肥やしとなっていくのです。それが「破草鞋」の意味するところです。

A氏は怒りっぽい方です。友人のBは温厚な方です。そんなA氏がある日、B氏に「俺は感情のコントロールができないんだ。だから、お前がうらやましい。お前のようになりたい。」と本音を漏らしました。今や年齢を重ね、温厚なB氏ですが、実は若い頃はA氏同様に感情のコントロールが不得手で、若い部下への暴力を上司から厳重注意さえたこともあるくらいです。そのとき、B氏は恥ずかしい思いをしたそうで、以来、自ら気をつけて感情をコントロールするようになりました。心に怒りを感じれば、よくよく考えて、言葉や行いを発するようにしているそうです。これは道元禅師様が「正法眼蔵随聞記」の中でお示しになっている“三度顧(みたびかえり)みる”という仏道修行者の心構えに合致する生き方です。そうやって、我が身を反省し、仏のみ教えに従って日々を過ごしてみるとどうでしょう。世間はB氏は温厚な方だと捉え、今や信頼を置かれるようになったのです。これぞ「懺悔(さんげ)」であり、そうやって、ときに自分が歩んできた道を振り返りながら、反省するなどして、道を歩み直していくことが「破草鞋」の願いです。

一足の草鞋を履きつぶすまでの間に経験する様々な出来事は、自分の人生を豊かなものにしていくものばかりです。その中でもB氏のように、自分の弱点は周囲の力をお借りしながらも、最終的には自分の力で克服していくしかないように思います。今年(令和2年)は新型コロナウイルスに翻弄され続けた一年になりそうです。その中で、“我が身を調え、冷静に対処することの大切さ”を学ばせていただきました。多くの人が「自分の弱点は冷静になれないことである」ということに気づかされたことでしょう。私もその一人で、今は冷静さを身につけようと毎日を過ごしています。

コロナ禍の時代を生きていく中で、自身の弱みに気づき、それを強みに変えていくことが求められています。そのことを「破草鞋」のみ教えを通じて、再確認させていただきたいものです。